市場ゲームと福祉ゲーム⑧(最終回)

―贈りものとしての生―

 

 二つの式で成り立つ世界を考えてみる。もちろん、この現実が二つの式だけで成り立っているということを証すためではない。ただ、世界というものは、少なくとも二つの式がなければ成り立たず、私たちは生きていけないということを示すためである。

 一つの式は、「A=A」であり、同一律を表している。通常は、矛盾律「A≠非A」および排中律「A∨非A」との三点セットで形式論理と呼ばれている。このように、世界は、一方で、形式論理によって成り立っている。

 もう一つの式は、「A=非A」で表される。この式は、形式論理を表す三つの式をすべて否定するものになっているのだが、ここでは、超論理と呼びならわしてきた。このように、世界は、もう一方で超論理によっても成り立っている。

 超論理とは、形式論理の否定にほかならず、形式論理は、超論理を封印することによって成り立つ。したがって、両者が同時に成立することは、本来ありえないはずである。では、なぜ、この世界には、両立することのない二つの式が現れ出たのであろうか。

 

一.父なる超論理

 その理由は、あまりにも単純である。それは、この世界において「A=非A」の式が成り立つということを前提としたからである。そもそも「A=非A」という式と、「A=A」という式とは、そのまま相互否定的な対立関係にある。つまり、「A=非A」という式の否定(=非)が「A=A」という式なのであるから、「A=非A」の式を「B」とおけば、「A=A」は「非B」ということになる。

したがって、「A=非A」が成り立つのであれば、「B=非B」となるから、「B(A=非A)=非B(A=A)」ということになり、二つの相反する(かのように見える)式は、イコールで結ばれて両立する。前回の表現を用いると、超論理と形式論理は、「絶対矛盾的自己同一」なのである。

 すなわち、一旦超論理「A=非A」を承認した上で、この超論理を自己言及させることによって、「A=非A」からそれ自身ではない式(=非)である形式論理「A=A」を生み出すことができる。

 このように、超論理は、自己言及することで形式論理を生み出すことができるのだが、形式論理は、たとえ自己言及したところで超論理を生み出すことがない。「A=A」の式は、自身に当てはめたとしても、「A=A=A=・・・」のように、ただ繰り返されるのみであり、そこに超論理が生じてくる余地はないからである。

 ここから、この世界が二つの式で成り立っているとするならば、超論理が形式論理に先行しているということがわかる。超論理は形式論理を生み出すが、逆は成り立たない。形式論理が先行するならば、超論理が成立する余地はない。

このことについて、本連載第四回での表現を用いれば、超論理は、父なる神として「生まれないもの」であり、形式論理は、子なるキリストとして「(父より)生まれるもの」であるということになる。

「ヨハネによる福音書」が示す通り、古代の人々は、キリストについて、神の言葉であり世界を構成する論理としての「ロゴス」を意味すると位置付けており、まさに、形式論理(キリスト=ロゴス)が超論理(父なる神)から生まれることを見定めていたことがわかる。

 

二.「存在はコトバである」

 たとえば、形式論理しか視野に収めていないと、「世界は存在しない」などといった断定をしてしまうことになる。世界は、父なる超論理によって生み出される。というのも、これまで繰り返し指摘したように、世界の始原を問うまでもなく、一切を何かで説明しようとすることは、現実世界(A)を「何か別のもの」(非A)によって捉えること(A=非A)を意味しているからである。

 では、現実(A)を説明する「何か別のもの」(非A)とは何であろうか。

それをずばり「コトバ」であると言い切ったのが井筒俊彦であった。主著ともいえる『意識と本質』においては、「Xがなんであるかということ、すなわちXの『本質』」を把捉するための有意味な単位に区切るのがコトバであるとされていた。無分節でしかない原初の存在Xを、たとえば「花」や「石」といった「何かであるものとして」分節する機能がコトバなのである(傍点原文)。

 コトバと表記されるのは、単なる言語的な言葉を超えて、イメージや音、さらには色や深層意識レベルでの分節までをも包含する概念だからであって、人(意識)が何かに出会った瞬間に、その何かを何か「として」把握することそのものを意味する。

 したがって、一切は、コトバとともに姿を現す、というか、意識に対してコトバなしに現れることはない。さらにいえば、すべてはコトバとして現れるのであって、突き詰めれば、すべてはコトバであるということになる。そして、井筒は次のように宣言する。

「存在はコトバである」。

 さらに続けて「あらゆる存在者、あらゆるものがコトバである、つまり存在は存在性そのものにおいて根源的にコトバ的である」(「意味分節理論と空海」『全集第八巻』)と述べている。

 もちろん、常識的には、存在(もの)とコトバとは独立しており、あるものについて、あるコトバが対応すると考えられている。したがって、一切がコトバであるなどというのは、「完全に非常識である」と井筒も一旦は認める。

 しかし、「言語アラヤ識」(『意識と本質』)と名づけられた言語意識の深層領域までをも見据えるとき、状況は全く異なる様相を呈する。そうした深玄な事情について、井筒は、古今東西で考え抜かれた論究を縦横無尽に参照して論じるのだが、いずれにせよ、すべてはコトバであるという命題は、前回見てきた、すべてが場所に「於いてある」という西田の論に通じる。

 というのも、場所から何かが何かとして現れるとき、それはコトバとして現れる。あるいは逆に、何かが何かとして現れ出でたものがコトバであるということになる。西田の場所とは、コトバが生成するところであるが、井筒もまた、コトバが生まれる以前、すなわち、存在が未展開である状態を「意識と存在のゼロ・ポイント」と呼んでいる(『意識の形而上学』)。

 このように、井筒は、ゼロ・ポイントから何かとして現れるそのときを凝視しながら、そこにコトバを観取した。存在(A)がコトバ(非A)によって姿を見せるとき、超論理「A=非A」がそこでは機能し始めることになる。

 

三.生の営みを支える変換式

 私たちが何かを何かとして捕捉するとき、その場所で超論理が作動する。それによって、存在がコトバとして立ち現れる。それに加えて、超論理は、自己言及することによって、自身の否定である形式論理を生み出す。とはいえ、超論理「A=非A」も、形式論理「A=A」も、いずれも等式にとどまっている。何かを把握するレベルであれば、「Xは、・・・である」になるので、Xと・・・を等式でつなぐだけでよい。

 だが、等式で記述される世界では、安定した秩序はもたらされるかもしれないが、動きや変化というものを説明することができない。しかしながら、人は、まさに生成消滅を繰り返す無常なる世界に対して働きかけつつ各々の生を営んできた。そのため、この世界には動きや変化が導入されなければならない。

 こうして、本連載の出発点に立ち戻ることになる。

 まず、等式「A=非A」からは、Aを非Aに変化させる変換式「A→非A」がルールとして定立される。変換式がルールになるのは、変化の方向性が示され、それに沿うことがなすべきこととして求められるからである。そして、このルールに基づいて行われる人々の営みをここでは福祉ゲームと呼んだのであった。

 また、もう一つのルールは、「A→A+α」であった。これは、連載第三回で示したように、「A→非A」の「非A」を「A+α」に限定することで導き出したとも、あるいは、第六回で述べたように、等式「A=A」の右辺に「+α」を加えることで、変換式へと変形させたとも考えられる。

ただし、前者のように超論理を出発点とするよりも、後者のように形式論理を出自とする方が、非合理にとまどうことなく素朴に「+α」を目的としてひたすら追求することができる。いずれにせよ、このルールに沿って行われる営みをここでは市場ゲームと名づけたのであった。

 この「A→A+α」では、求められる「+α」が必ずしも決まっているわけではないのだが、目標とかノルマといった形で高めに設定されることが多く、その達成に向けた努力が必要となる。現代社会が市場ゲームを中心に回っていることは、言を俟たない。

 それに対して、「A→非A」に則った営みでは、まさに正反対への変換が求められるのだが、現実を実際に変えることは必ずしも容易ではないため、現実ではなく、人間の側の受け取り方や意味づけ方の変容に依拠することが多い。すなわち、現状を維持したままで捉え方を変えるよう促される。

 

四.優生思想と忍従

 市場ゲームは、「A→A+α」をルールとする。もともとは、「+α」の内容が一義的に決まっているわけではない。テストの点数かもしれないし、試合での得点かもしれない。ただ、「市場」という言葉からもわかるように、生産性という言葉で代表されたり、貨幣量の多寡に換算されたりすることが多い。

 その上で、市場ゲームは、「+α」の実現が「できる/できない」という条件で、人を評価する。このとき文字通り「できる/できない」には線引きがなされている。そして、この線引きは、あることについての可否にとどまらず、人にまで、さらには、その人の存在にまでいとも簡単に敷衍することができる。すなわち、あることが「できる/できない」の線引きは、そのまま「できる生/できない生」に直結する。

 その上で、単に「できる/できない」の線引きに価値が貼り付けられ、「できる=価値のある=優れた/できない=価値のない=劣った」と定位されると、「優れた生にのみ存在価値を認める」といった優生思想に直結する。優生思想の酷さは、その裏返しとして「劣った生には存在価値を認めない」という排除の思想を直接的に正当化することである。それは、劣ったとされる生を赦すことがない。そして、第一回でふれたように、相模原の事件が帰結される。

 生そのものを分断するこうした線引きをどこで行うのかといったことについては、そもそもいかなる根拠も見出すことができない。あらゆる線引きは恣意的であり独断的である。すなわち、「優れた生/劣った生」という線引きは、実際には、「線引きする側/線引きされる側」の分断にすぎず、それはイコール「排除する側/排除される側」の線引きを意味しており、排除する側の都合で、いかようにでも設定することができる。

 市場ゲームの一元的世界とはこのようなものである。かといって、福祉ゲームだけの世界を実現すればよいというわけでもない。というのも、一つには、どれほど否定的な状態であっても肯定的に捉えられ、すべてが無条件に赦されてしまえば、成長に向けた努力や節制などが不要となり、どうせ何をやってもあるいはやらなくても同じだといった虚無的な頽廃が残るだけだからである。

 またもう一つには、どれほど悲惨な状況であっても、ただそれを受け入れることが求められるのであれば、それは、社会のあり方に責任を持つべき者たちにとってはきわめて好都合であるとしても、多くの人々に対しては、端的に忍従や隷属を強いるだけのことになってしまうからである。

 市場ゲームは、たしかに豊かさに向けて、成長や発展を促すが、優生思想への歯止めを有してはいない。福祉ゲームは、すべてを無条件に肯定する寛容さを示すが、それだけでは、退廃や忍従につながりかねない。

 もちろん、最悪なのは、一方で「優れた生/劣った生」という線引きを細分化させながら、もう一方では、自己責任をキーワードに、拡大し続ける格差への忍従を強いるような社会である。そして、おそらく、私たちは、この方向へと加速度的に突き進んでいる。程度の差はあれ、そのことを誰もが感じながらも、しかし、手をこまねくばかりで、止めるすべを知る者はいない。

 

五.贈りものとしての生

 たしかに超論理に基づく福祉ゲームは、人々に忍従隷属を強いることがある。だが、とりわけ古代の人々が超論理を見すえた上で宗教や思想を創り上げてきたのは、現実における生の営みがあまりにも過酷であり、かつ、そんな現実に対するなすすべのない無力さを痛感していたからである。

 にもかかわらず、だからこそ、たとえば、後世の人々は、晩年のブッダに託して、「世界は美しい。人のいのちは甘美なものだ」という言葉を残した。あるいはまた、「創世記」は、天地創造の六日目に「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった」(傍点筆者)と述べる。

 このように、古代の宗教や思想において、世界は、全肯定されることから始まった。少なくとも、人々は、うちのめされるほどに惨澹たる現実を生きていたからこそ、そうした生の営みをそのまま「それでよし」とする強靱な宗教や思想を心の底から希求せざるを得なかった。そして、それらは、超論理を最大限に活用することによってしか創り上げられなかったのである。

 理不尽ともいえる現実において生を営んでいくこと。そのためには、この生を贈りものとして、あたう限りの感謝とともに受け入れることが必要であった。そして、こうした生のあり方においても、二つのゲームが交錯する。実際、贈与論が指摘するように、贈りものは、人々に負い目をもたらす。この生を贈りものとして捉えることには、ありがたさと申し訳なさとが入り交じっている。

 贈りものとは、それ自体善きものである。したがって、市場ゲームであれば、ありがたいと感じるだけでよい。ところが、人は、福祉ゲームにも参加するからこそ、価値の転換が生じて、贈られたことを申し訳ないと感じるようになる。すなわち、ありがたいからこそ申し訳なく、申し訳ないほどにありがたい。

 さらに、申し訳なさをやわらげるためには、誰かに何かを贈ることが必要とされてきたが、それは、市場ゲームでいえば、端的に損を被ることでしかない。ところが、そうした悪しきものとされる損もまた、福祉ゲームにおいては、善きものへと変換されるため、負い目の解消につながるのであった。

 このように、人は、古来より、二つのゲームに参加しながら贈りものとしての生を営んできた。私たちの世界は、二つの式がなければ成り立ってゆかない。その上で、アクセルとブレーキがあってこそ安全な動きが保たれるように、二つの式を使い分ける聡明さがどこかに求められることだけは確かであるといってよい。

 

 ただ、今の私たちに、「赦す」ことなどできるのであろうか。