再び連載の機会をいただくことになった。前回は、「思想としての援助」と題して、二〇〇八年の一〇月号から翌年の三月号まで書かせていただいた。奇妙なタイトルであるが、直接的な援助や臨床の場に身をおいているわけではないので、逆に、援助というものを「思想として」できるだけ遠くから眺めようと試みたのだった。

 結果的には、リッチモンドやフロイト、ロジャーズやヤスパースなどの所論を素材にして、人為的に行われる援助が抱え込むある種の不自然さを素描するにとどまった。また、最終回では、故 久保紘章先生に導かれ、援助者が己の無力さと向き合うことの意義を強調し、敗北の地点に踏みとどまる援助論の可能性を示唆した。とはいえ、それは結局自らに宿題を課したにすぎなかった。

 そして、一年が経った。


■「存知のごとくたすけがたければ」

 前の最終回でふれたことだが、援助者が時折抱える無力感や徒労感は、援助そのものが根底に含んでいる無力さの現れでもある。たしかに、援助にたずさわっていれば、なすすべもなく途方に暮れることがある。しかし、そうした個別具体的な場面から離れ、彼方から眺めてみれば、人がいずれは無に帰すことを免れない以上、極論とはいえ、援助そのものもまた、己の無力さと、さらには無益さとも向き合わざるをえない。

 さらに、これも前にふれたことではあるが、援助の無力さを前にして、たとえば、親鸞は、「今生に、いかにいとをし、不便とおもふとも、存知のごとくたすけがたければ(この世では、どんなにいとおしい、気の毒と思っても、思い通りに助けることはできないので)」(歎異抄四)などとつぶやいてみせる。

 現代においてであれば、「存知のごとくたすけがたければ」と口にしたところで、青臭いニヒリズムにしか聞こえない。だが、親鸞の時代には、イズムといった選択が成り立たないほどに、飢饉、戦乱、疫病などで死臭が街中を覆い、現実は、まさにむき出しのニヒルそのものであった。そして、今もまた、現実のニヒルさは、人工照明のまばゆさに隠蔽されているかのようであるが、その本質はいささかも変わりようがない。

 であれば、あらためて援助を遠くから眺めてみる試みも許されるのではないだろうか。援助を思想として捉える距離感が保たれることによって、現実のニヒルさもまた視界に入ってくるからである。いうまでもなく、私たちは、ニヒルさと対峙することを回避し続けることで今を保ってきた。しかし、ここでは、あえて援助を彼方に見据えることを通じて、現実のニヒルさと向き合う作法を考究していきたいと考えている。

 このように雑駁な問題設定からの出発ではあるのだが、まず、全くの門外漢ながらに、しばらくは平安鎌倉仏教の周辺を逍遥する。親鸞と同じ時代の空気を吸いながら、存知のごとくたすけがたい現実に対し、どのような態度をとることが可能だったのかということを確認しておきたいからである。


■「先師全和尚入宋せんとせし時」

 現実のニヒルさを前にして、一つの姿勢を明確に打ち出した一人が、曹洞宗の開祖道元であった。

 道元(一二〇〇-一二五三)は、三歳で父親を、八歳で母親を亡くし、一四歳で比叡山に入るものの、四年ほどで下山して、臨済宗の祖である栄西の開いた建仁寺に赴いた。栄西は、すでに亡くなっていたため、道元は、その弟子明全に師事することになる。

 明全四〇歳、道元二四歳のとき、二人は、宋へ渡る機会を得る。と同時に、明全が比叡山にいたときの師であった明融が重病に伏し、入宋を延期して看病してほしいと明全に頼み込んだ。八歳で出家して以来、親代わりに育ててくれた師の最期を看取るべきかどうかに迷った明全は、同朋や弟子たちから意見を聞くための会議を開いた。皆は口々に、今回の入宋を延期して、看病すべしとの意見を述べた。末席にいた道元も「悟りがこのままでよいと思われるならば、お留まりになればよいでしょう」と最後に進言した。

 だが、皆の意見を聞き終わった明全は、決然と言い放った。「入宋を中止したからといって、命が延びるわけでも病苦が軽くなるわけでもなく、自分の言うことをきいてくれたと喜ぶだけである。もし私が入宋して悟りを開くなら、多くの人が道を得る縁となる。一人のために貴い時間をむなしく過ごすことは仏意にかなうまい」と。これを聞いた道元は、道を求める真実の心であると褒めたたえた。

 求法の厳しさを示すものとしてよく知られたこのエピソードは、道元に長く随従した懐奘による『正法眼蔵随聞記』(以下『随聞記』)長円寺本巻六ノ一三段「先師全和尚入宋せんとせし時」に見られる。『随聞記』は、永平寺を開く前にとどまっていた京都深草の興聖寺時代に、懐奘が道元の言葉を筆録した私的なメモである。したがって、明全の話もまた、道元がある時懐奘に直接語ったものだということになる。それは、どのようなときだったのであろうか。

 道元より二歳年長ながらに弟子入りした懐奘は、興聖寺の首座、すなわち修行僧のリーダーであった。そんな懐奘の母親が病に伏した。父親はとっくに亡くなっていた。当時、興聖寺の規則で、外出は、一カ月に二回、一回につき三日までと決められていた。懐奘は、母親の看病で、ある月この制限を使い切った。そんなとき、母危篤の知らせが届いた。

 このときの様子は、曹洞宗第四祖瑩山による『伝光録』第五二章が詳しく伝えている。それによると、興聖寺の修行僧五〇余名は全員で衆議し、再び母親に会うことは叶わないのだから、禁制を破っても「懇請してゆくべし」との意見であった。ところが、懐奘は、修行僧の第一位として、「仏祖の軌範は衆議より重い。悲母の人情に従って、古仏の垂範にそむくならば、母親の大罪となり、かえって親不孝になる」と言い切って寺にとどまったという。

 『正法眼蔵』の校注者でもある水野弥穂子氏は、その著『「正法眼蔵随聞記」の世界』の中で、道元が懐奘に明全のエピソードを語ったときと、『伝光録』の伝える懐奘の決断のときとは、「相重なる時」に違いないと指摘されている。懐奘の苦悩を察した道元は、一〇数年前を思い起こし、自らの師である明全和尚苦渋の決断を高く評価することによって、懐奘に決意を固めるよう促したのであった。


■<善きこと>という戦略

 いかに恩義ある師であっても、かけがえのない母親であっても、存知のごとくたすけがたしという現実を免れるものではない。これを踏まえて道元が示したのは、こうしたニヒルな現実を越え出た何か、すなわち、至高の価値を有する<善きこと>が存在するということであった。

 ここでいう<善きこと>は、たとえば、仏法や正法、あるいは、悟りや道などとも呼ばれているが、いずれも、現実を越えた価値のある何かと位置づけられている。明全や懐奘のエピソードが示しているのは、<善きこと>を求めることによって、助けきれないという現実のニヒルさに陥ることを回避する戦略なのである。

 ニヒルな現実と<善きこと>とのこうした対比は、「相対と絶対」「個物と普遍」あるいは「現象とイデア」などといったおなじみの二項対立図式と同じく、一方の項を高みにおくことで非対称的な傾斜を作り出している。そのため、この図式を採用した人は、価値のおかれた<善きこと>への希求に突き動かされる。

 とはいえ、もちろん、仏教が、そして、道元が最終的に目指すところは、この二項対立図式そのものを瓦解させることではある。しかし、壊すためには、まず造らなければならない。それも、できるだけ強固に造る必要がある。簡単に壊れる程度の図式では、中途半端な復活を繰り返すからである。そのため、逆説的であるが、全力をあげて、とても壊せるとは思えないほどに頑丈な図式を造り出すことが望ましい。

 明全は師による最後の願いを振り切ることによって、懐奘は老母の看取りを断念することによって、それぞれに<善きこと>を、この上ない犠牲を払ってまで求めるべき価値のあるものと位置づけ、ニヒルな現実からの飛翔に踏み切ったのであった。

 それが血涙を流すほどの辛苦を伴ったことは、想像に難くない。明全は、宋に着くとただちに天童山にはいり修行生活を始めた。だが、身を削る厳しさを自らに課したのであろうか、二年後に、四二歳の若さで客死する。

 同じ頃、道元は、諸山を巡った後に真の正師となる如浄に相見し、本格的な修行に身命を惜しまず打ち込んだ。その気迫は、「たとえ発病して死のうとも、やはりただ修行をしよう。修行もしないで、命を長らえても何の役に立とうか。病気になって死んだら本望である」(『随聞記』巻二ノ一一段)というほどに峻厳なものであった。道元にとって、<善きこと>の前では、自らの命でさえも取るに足らないものでしかなかったのである。


■託された情

 結果的に、懐奘は、母親の最期に臨むことを思いとどまった。それは、情を理によって封じ込めることであったともいえる。情は、他者との間で生まれ、他者との有り様によって育まれていく。他者とは、もともと制御できない存在であるから、他者と共にある情もまた、思いのままに取り扱うことができない。

 そのため、<善きこと>を一途に求めようとするならば、情は、ノイズとなり、たとえ老母であっても師であっても、情愛を生み出す他者として、それらとの関係は、断ち切られなければならないのであった。

 しかし、懐奘自身に迷いがなかったわけではない。先に引いた『随聞記』巻六ノ一三段の終盤では、自らの疑念を道元に直接ぶつけたことが記されている。

 曰く「真実求法のために、父母恩愛の情を捨てるのは道理としても、菩薩の慈悲行を思えば、自利をさしおいて利他を先とすべきではないでしょうか。だとすれば、自分(懐奘)しか看病する者がいないのに、自分の修行を優先させるのは、菩薩の行にそむくのではないでしょうか」と。理を受け入れながらも、何とか情を捨てたくはないという切実な思いが伝わってくる。

 だが、道元の返答は、「親の老病を助けようとして、貧しい中で看病するのは、生きているこの世のわずかな間での、迷った心の喜び(妄愛迷情の悦び)に過ぎない。情にそむいて悟りの道を学べば、たとえ心残りはあろうとも、迷いの世界を離れる縁となるであろう。これを思え」であった。限りなく冷徹な理路である。しかし、懐奘は、この理を自分のものとした。情は、静かに封印されたのである。

 とはいえ、封じられた情は、だからといって、霧散したわけではなかった。再び水野氏のご教示を受けて、晩年の懐奘についても触れておきたい。

 道元は、五四歳の若さで示寂する。懐弉は、永平寺を継いで二代目となるが、七〇歳を前にして、二〇歳以上年下の義介に三代目を譲る。しかし、別の人を推す者たちも多く、寺内が派に二分してしまった。そのため、義介は五年ほどで退き、再び懐弉が責任者となった。そして、懐弉は、実家に戻った義介をその母親共々呼び戻し、永平寺内に住まわせたのである。

 『三祖行業記』にみられる義介の段には、「養母堂を建て母を養ふ」と記されている。懐奘がついに遂げることのできなかった情は、およそ四〇年近くを経て、義介に託されたのであった。


 援助という営為にニヒルさを突きつける現実を前に、理は、絶対としての<善きこと>を創出することによって、現実を相対へと変換し、そこから超え出るようにと促す。ただし、援助が理の方向を追求することは、およそむずかしい。援助とは、人と人との間で行われる営為であって、情を排斥してしまうことができないからである。

 しかし、結果として、援助が人を理の世界に住まわせることはある。人は、人に支えられることで、驚くほど静謐な心境に落ち着くことがある。そのとき、情は、もちろん消え失せたわけではなく、理に包まれることによって、ニヒルな現実と向き合う力を得る。懐奘は、道元に支えられ、たしかにそうした静かな力を手にした。だからこそ、何十年の時を経ても、その情は、他に託されるほどの温もりを保ち続けたのであった。