ここまで、具体的な場面として、平安鎌倉の仏教では、母親の最期に臨んでどのような態度がとられてきたのかを見てきた。というのも、思い通りに助けきることができないという現実のニヒルさを視野におさめながら、援助の有り様についての検討を試みるためであった。

 道元の弟子懐奘は、寺の規範にしたがって、苦渋の決断により老母の看取りを断念した。逆に、源信は、虫の知らせにためらうことなく結界を越え、母親を往生へと導いたとして讃えられた。これらに対して、母親との再会を自ら拒否したとされているのが浄土宗を立てた法然である。


■母の願いを振り切って

 法然(一一三三-一二一二)は、岡山県に生まれた。父親は、今でいう地方警察のように治安維持を担当していた豪族であった。法然が九歳の時、父親が夜討ちで瀕死となる。だが、死に臨む父は、法然を呼び、「決して敵人を怨んではならない。これはひとえに前世の宿業である。(略)早く俗を逃れ出家してわが菩提を弔い、自らの解脱を求めよ」と述べ、端座して西に向かい、合掌して仏を念じ、眠るがごとく息絶えた伝えられている(岩波文庫『法然上人絵伝』第一、以下『絵伝』)

 法然は、ほどなくして母親の弟が住持するそれほど遠くない山寺に預けられた。しかし、そのすぐれた才能を地方で朽ちさせるのがあまりにも惜しいとして、一三歳で比叡山に登ることになる。母としてみれば、夫亡き後のたった一人の子である。喜んで手放すなどということはできるはずもなかった。

 しかし、法然は、「父の遺言が耳底にとどまって忘れられません。早く比叡山に登って仏の教えを学びたいのです」と母親を説得したという。母親は、法然の理に逆らえず、自らの情を封じて承諾したものの、その涙は袖だけではぬぐいきれず、幼い法然の黒髪をぬらしたと伝えられている(『絵伝』第二)。

 天下の秀英たちが集う比叡山にあっても、法然の学才は抜きんでており、「智慧第一の法然房」とうたわれるまでになった。何年かして、母より手紙が届いた。もうはるか長い間会っていないので、少しだけでよいから帰郷してもらえないか、あるいは、それが無理なら私でも往生できる道を教えてほしいとのことであった。

 そのとき、法然は、女人往生の道を説いた返書をしたためたものの、帰ることについては、きっぱりと断った。法然にとっては、「いつかは死んでしまう身であるから、少しの間でも無益なことを思っているわけにはいかない。(略)二度と帰ることはない(二たび帰り給うまじく候)」というわけであった(大橋俊雄『法然』)。

 法然は、晩年に四国への流罪となった道中、それまで手元にとっておいた母からの手紙を張り合わせて自身の像を作り、弟子に授けたとの伝承がある(光明寺「張子の御影」)。晩年にいたるまでその手紙を大切にしていたことからみて、法然もまた、母親を思慕していたことはたしかである。にもかかわらず、再び会いに行くことはなかった。

 ただし、数多い法然伝の中には、母親もまた父親と一緒に夜襲で殺されたと伝えるものもある。とはいえ、晩年の法然には、確かな史実として、別の女性とのエピソードが残されている。


■愛する心を先送りに

 法然が残した手紙の中に、「正如房へつかわす御文」というのがある。正如房とは、後白河天皇の第三皇女式子内親王(一一四九-一二〇一)の法名である。一一歳で賀茂神社の巫女となり、未婚のまま生涯を送ったのだが、和歌に優れて恋の歌を数多く残している。近年、その忍ぶ恋の相手は、法然であったとされた(石丸晶子『式子内親王伝-面影びとは法然』)。

 その式子が法然に恋い焦がれながらも、病を得て命終間近となった。そこで、最後に一目会いたいと法然に手紙を書き送った。「御文」は、それに対する返書である。かなり長い手紙であるが、式子をいたわり、必ず往生することを繰り返し説き、安心して臨終を迎えることができるようにと精一杯気遣っている様子が文面から伝わってくる。だが、一目だけでもという式子の願いに対しては、母親の場合と同じく、会いに行くことはできないと振り切った。

 文意を汲むと、病に倒れた式子に対し、見舞いに行きたいのだがといいつつも、「しばしの間外出しないで念仏をしようと思い始めたところなので」と会いにいけない理由を述べている。だが、いくら集中的に行われる行事としての念仏であっても、全く中断することが許されないほどの儀式ではなかった。

 そこで、さすがに弁解になっていないことに気づいたのか、すぐさま、「結局のところ、この世で対面することなどどうでもよいことです(コノヨノ見参ハトテモカクテモ候ナム)」と言い放ち、「誰であっても、この世にとどまっていることはできません。私も人も、ただ後れるか先立つかの違いがあるだけのことです」と断じ、一緒に仏の国に行って、蓮の上でともに語り合いましょうと、二人の対面を浄土へと延ばしたのであった。

 この返書を手にした式子の失意はいかほどであったろうか。現世での、まさに最後の相見を切に願う式子に対し、誰もこの世にはとどまれないのだから、会っても仕方ないと切り捨て、あの世で語り合いましょうと先送りした法然。

 もちろん、法然もまた駆け参じたかったはずである。だが、当時法然は、多くの信奉者を集めると同時に、その革新的な教義に対する比叡山や南都からの反発もまた高まっており、念仏教団存続のためには、いささかのスキャンダルも許されなかった。あるいは、法然ではなく、阿弥陀仏にこそ頼んで往生すべきという「理」を貫いたとも考えられる(阿満利麿『歎異抄』)。

 いずれにせよ、式子は、ほどなく息を引き取った。一二〇一年一月二五日、享年五三。その年の三月、六九歳の法然の下に二九歳の親鸞が入門する。


■相対化という戦略

 法然は、自らを律して情を封じるのにこの上なく厳しい人であった。求法のために、母親の願いを振り切って二度と戻らず、弘法のために、式子からの切なる愛にも理をもって応じ、その枕頭に赴くことはなかった。

 そして、そうした厳しさは、「いつかは死んでしまう身であるから」とか、「誰であっても、この世にとどまっていることはできないのだから」などといったニヒルな現実認識に裏打ちされていた。法然は、現実のニヒルさをあらためて前面に押し出すことで、母親や式子の今生における必死の願いを相対化してしまったのである。

 こうした相対化の戦略は、父親の遺言である「敵を怨む事なかれ」を忠実に、そして、徹底的に遂行する上で、確立されてきたともいえる(唐木順三『無常』)。怨みを乗り越えるためには、父も敵も、怨みさえも、現実のあらゆることどもを「すべては無に帰す」というニヒルさに投げ込み、その絶対性の前で、ことごとく相対へと化してしまうことが有効だからである。

 もちろん、それに比例して対極に置かれた極楽浄土が絶対視され、相対としての現実と絶対としての浄土とを架橋する口称念仏にこの上ない重みが加えられていったのだが。

 いずれにしても、こうした基本的な戦略が「敵」や「怨み」だけでなく、今生における親子の情愛や密やかな愛情にまで適用されてしまうと、そうした一途な思いをも結局とるにたらないものとして一蹴するほどに酷い「厳しさ」となる。ところが、この戦略が人々の抱える「罪」や「悪」に適用されると、そこには一転して、慈しみとも呼べるほどの「やさしさ」が生まれる。

 法然をめぐってよく知られたエピソードを『絵伝』から引いておきたい。

 東国の武士熊谷直実は、一ノ谷の合戦で平家の貴公子平敦盛を討ち取ったことにより平家物語にも登場するが、後年出家して法然を訪ね、自分が往生するためにはどうすればよいかと尋ねた。法然は「罪の軽重は問わずに、ただ念仏さえ申せば往生する。それ以外はいらない」と答えた。人々を殺すことで勇名を馳せてきた直実は、自ら手足を切らなければ往生は叶わないと思っていたため、法然の言葉にさめざめと泣き出したという(第二七)。

 念仏排斥の圧力により、四国配流の宣下を受け、船で下って瀬戸内海に出たとき、老夫婦が法然を訪ね、「自分たちは幼少の頃より漁を行い、日々魚の命を取ってきました。殺生をするものは地獄に堕ちて耐えがたい苦しみを受けるといいますが、どうすればまぬがれることができるのでしょう」と聞いた。法然は、「あなたのような人でも、南無阿弥陀仏と称えれば、仏の悲願によって必ず浄土に往生します」と答えた。二人は、涙にむせびつつ喜び、昼は漁をしながらも名号を称え、夜は声を上げて念仏したという(第三四)。

 同じく瀬戸内海の泊についたとき、遊女が船で近づいてきて、「このような罪重き身は、どのようにすれば後生で助かることができるのでしょうか」と問うた。法然は、「ただそのまま、もっぱら念仏をすればよろしい。阿弥陀如来は、そういう罪人のために誓いを立てたのです。ただ、深く本願を信じ、あえて卑下する必要はありません」と答えた。これを聞いて、遊女は随喜の涙を流し、近くの山里に住んで一途に念仏し、往生をとげたという(第三四)。

 ここに描かれている慈父の姿は、悪に対する徹底した相対化に基づいている。あるいは、蛇足ながら、より卑近な例として、『一百四十五箇条問答』では、「飲酒は罪になりますか」と問われ、「本当は飲まない方がよいのだが、世の習いとしては仕方ない」と答えてもいる。


■際限のない赦し

 平安初期に編まれていた仏教説話集『日本霊異記』は、因果応報の論理に基づく説話を収め、仏罰による地獄送りを繰り返し示すことで、現世的な勧善懲悪を根拠づけていた。それに対して、法然は、どのような悪人であっても念仏を称えれば、極楽へ往生すること、すなわち、<善きこと>を手にすることができると宣言した。これによって人々には、因果応報から解放され、際限なく赦される道が拓かれたのである。

 もちろん、口称念仏による往生そのものは、二世紀以上も前に空也によって説かれ、時代を経て北嶺や南都でも広まっていただけでなく、一二世紀の後半に当時の京都で流行っていた歌謡を集めた『梁塵秘抄』には、どんな極悪人でも、念仏を称えれば弥陀が来迎するとの歌が収められているという(平雅行『親鸞とその時代』)。

 したがって、口称念仏による救済思想自体は、特に目新しいものではなかっただけでなく、前回もふれたように、あまりにも易行すぎて、説得力の欠けた思想でもあった。

 そんなときに、法然という類い希なる人格が登場した。比叡山において四半世紀以上もの間厳しい修行を積み、一切経を繰り返し読誦して智慧第一といわれながら、しかし、出世を拒んで黒谷に隠遁し、日常的に妻帯していた僧侶たちの中にあっても一生不犯の持戒を貫き、にもかかわらず、武士や市井の人々に倦むことなく念仏往生の教えをわかりやすく説き続けた法然。

 なぜ、念仏を称えるだけで、どんな極悪人でも極楽へ往生できるのか。法然も「聖意(仏の御心)測り難し」(『選択本願念仏集』第三章)という表現を用いているが、おそらく、これは、もともと極楽とはそういう所なのだと断じる以外には、いかなる理をもっても証しきることのできない問いである。

 だが、法然という高潔な人格にふれたとき、先のエピソードが示すように、地獄に怯える人々も、理屈を超えて、ただただ涙ながらに往生を信じることができたのであった(柳宗悦『南無阿弥陀仏』)。

 法然は、自らの怨みと向き合う過程で、自分自身を、さらには、一方で、かけがえのない一途な願いも、もう一方で、地獄必定とされてきた破戒行為も、おしなべて現実すべてを相対化しうる強靱な人格となり、その果てにおいて、口称念仏ただ一つを命綱として、際限のない赦しを一人ひとりに贈っていったのである。


 式子が愛したのは、そういう人であった。

 法然の命終は、まるで申し合わせたように、式子の逝去から一一年後の同月同日である。死の間際、彼は、ついに浄土で式子と語り合う日が訪れることに心震わせたのだろうか。