可能な限り距離をとって援助という営為を眺めてみれば、人を助けきることができないというニヒルな現実が視界に入ってくる。その場合、一つの方法として、前回みたように、ニヒルさに現実を超えた至高の価値を対置させ、そうした<善きこと>の追求に自ら没入することによって、ニヒルの深淵に呑み込まれるのを回避する戦略が考えられる。

 だが、<善きこと>をさらなる彼方に位置づけて、自力での追求を半ば断念した上で、あらためて戦略を模索した人たちもいた。その一人が平安時代中期に『往生要集』を著し、日本に浄土教の基礎を築いた源信(九四二-一〇一七)である。


■祖子の契

 『今昔物語集』には、源信とその母親とのエピソードを載せた「源信僧都の母の尼、往生せる語」が収められている(巻一五第三九)。それによると、源信は、幼くして比叡山に上り、学問の才を発揮して、皇族を前に法華経を講ずる役に任ぜられた。大役を果たしたことによって下賜された品を母親に送ったところ、「唯一の息子を出家させたのは、世俗的な名声を得させるためではなく、名利を離れて修行に励む高徳の僧になってもらいたいからだ」と厳しく諫める手紙が届いた。

 これを読んだ源信は、涙ながらに悔悟し、今後は、母親から会いたいと言われない限り修行に邁進すると誓った。そして、山に籠もること七年目となり、母親に会いたくなって、「ちょっとおうかがいしたい」と手紙を書いたところ、「こちらから呼ばない限りは出てきてはならない」と拒絶された。

 ところが、さらに二年が過ぎ、ふと虫の知らせで母親の死期の近いことを悟った源信は、迷うことなく老母の元へと向かった。途中で母親からの手紙を持った使者に出会う幸運にも恵まれ、馬で駆けつけたところ、母親はすでにひどく弱っていたが、源信に会えたことを心から喜んでくれた。そして、枕元で経文などを聞かせたところ、母親はおもむろに自ら念仏を唱え始め、明け方、消え入るように息絶えた。

 源信は、「自分が来なかったら、母親の臨終はこんな風ではなかっただろう。自ら念仏を唱えて亡くなったのだから、往生は疑いない」と泣きながら比叡山に戻っていったという。

 このエピソードについては、比叡山の聖人たちも、何とも心打たれる親子の縁(祖子の契)であると涙ながらに貴んだと『今昔物語集』は結んでいる。母親が厳しく源信を聖の道へと勧め入れ、だからこそ源信は、母親を尊い最期へと導くことができたというわけである。

 前回見た懐奘が必死で守った「仏祖の軌範」からいえば、源信は、明らかな掟破りである。ただし、比叡山では、修行僧達に一二年間の籠山が課せられていたのだが、母親の孝養だけは例外とされており、修行を中断して看取ることが認められていた。女人結界の外側には、老母達を住まわせる特別な施設まで作られていたという(勝浦令子『古代・中世の女性と仏教』)。

 だが、掟破りをめぐっては、別の聖について、より過激なエピソードが伝えられている。


■神泉苑の老狐

 平安京大内裏の南に造られた神泉苑という広大な庭園の北門外に衰弱した老女がいた。上人は、これをあわれんで朝夕に見舞い、老女の欲するままに、僧には禁じられている魚や肉などを買い与えたところ、二ヶ月で元気を取り戻した。しかし、何とも取り乱して口ごもるため、上人が問い尋ねると、老女は精気が出てきたので男女の交接をしたいという。上人は、しばらく考え、応じてやってもよいとの気配を示した(上人食頃思慮し、遂に心に許すの色あり)。すると、老女は感嘆し、「自分は神泉苑の老狐であるが、上人は真の聖人である」と言って忽然と姿を消したとのことである。

 ここにいう上人とは、源信より四〇歳ほど年長で、平安中期に京の市中でひたむきに念仏を称え、市聖とも阿弥陀聖とも呼ばれた空也(九〇三~九七二)である。また、このエピソードは、空也の没後まもなくに書かれた『空也上人誄』(石井義長『空也』所収)が伝えている。「誄」とは、故人の遺徳や業績をたたえて霊前に捧げる言葉であるから、このエピソードもまた、空也の高徳を示すものとして残されてきたのであった。

 いうまでもなく、淫は、殺や盗に次ぐ重大な破戒行為であり、妄(嘘)と合わせて四重禁戒の対象となっている。にもかかわらず、空也は、老女の求めに応じる構えを見せた。もちろん、老狐が化けたなどという奇譚にすぎないと読み捨てることもできる。しかし、たとえ破戒者となってすべてを失おうとも、目前にいる老女の求めを満たそうとした空也の姿勢を、当時の人々は非常に高く評価し、あえて誄に書き残したのであった。

 空也は、六一歳の時、一四年にわたって書写された金字大般若経六〇〇巻の供養会を盛大に行った。その際に読み上げられた『願文』は、空也の意向を受けて書かれたものであるが、そこには、「他を利して己を忘るるの情」といった文言が見られる。同じく、最澄による『山家学生式』の「六条式」にも「己を忘れて他を利するは、慈悲の極みなり」といった言葉も残されているのだが、いずれにせよ、老狐とのエピソードは、まさに、「己を忘るる」という姿勢に基づくものであった。


■自利と利他

 この利他忘己という思想は、前回みた懐奘が道元に突きつけた疑念にも見ることができる。

 懐奘は、危篤状態に陥った母親の看取りに行くことが規則違反になってしまう状況の下で、修行を理由に病人を見捨てるのは菩薩行に背くのではないかと道元に迫った。「自利(修行)をさしおきて、利他(看病)をさきとすべき」ではないかというわけである。だが、それに対する道元の回答は、「妄愛迷情の悦び」にすぎないというものであった。

 人の切なる求めに応じること。それは、おそらく援助という営為の最も始原的な形式である。懐奘は実母の、空也は老女の、それぞれの願いを満たそうと思ったのであるから、両者は、共に援助の形式に則っているといえる。

 だが、一方は、妄愛迷情の悦びと切り捨てられ、もう一方は、真の聖人と讃えられたのであった。どこが違っているのだろうか。もちろん、看取りと交接という対応方法の違いがまず目につくが、それだけならば、懐奘の方が高く評価されてもよさそうなものである。問題なのは、自と他との関係性の違いであった。

 空也と狐が化けた老女との間には、もともと何の関係性もない。たまたま神泉苑北門の外で出会っただけである。したがって、空也の場合は、自他の関係性が偶然的で希薄なものにとどまっており、逆に、「他」が誰であっても構わないという一般性を有することになる。空也は、誰に対してであっても、利他忘己の姿勢で応じることができた。

 それに対して、懐奘とその実母とは、まさにこの世において唯一絶対の取り替え不能な関係であって、だからこそ、個別特殊性を超えることはない。母子の間では、自他が渾然と交錯しているため、自利が利他を装っただけという偽善性を払拭することができないのである。


■地獄と極楽

 とはいえ、自他の「他」が実母であったのは、源信もまた同じであった。しかし、源信のエピソードについて、比叡山の聖人たちは、逆に、親子の縁の深さに感動したと伝えられている。すなわち、関係性が濃密だからこそ、人々は源信を讃えたのである。だとすれば、懐奘の願いはなぜ切り捨てられたのか。

 源信のエピソードが当時の人々を感動させたのは、たしかに母親との関係が深かったからではあるのだが、それだけであれば、多くの母子関係もまた同じであって、とりたてて伝えていくほどのことにはならない。源信の場合は、結果的に母親本人が極楽往生したということが肝要だったのである。当時の人々は、母子の縁が母親の往生をもたらすほど濃密だったことに心を打たれたのであった。

 これに対して、懐奘がたとえ母親の最期を看取ったとしても、だた涙するだけであって、結局は、助けきることができないというニヒルな現実に呑み込まれる以外にはない。懐奘には、母親の死をニヒルさから救い出す意味づけの枠組みが備わっていなかったからである。そこが「往生」という概念によってニヒルさから距離のとれた源信とは決定的に異なっている。

 道元は、このことを知悉していた。というのも、懐奘が直面した問題は、そもそもニヒルな現実に対して、現実を超えた<善きこと>を仮設し、自らそれを求めるという戦略(自力聖道門)を採用した時点で、発生せざるをえない問題だからである。

 他方、源信は、臨終の際の念仏や極楽往生といったいくつかのキーワードを用いて死を意味づける枠組みをすでに有していた。その著『往生要集』において、源信はまず、等活から無間にいたる八大地獄における責め苦の有り様をリアルに描き出し、その上で、極楽浄土の荘厳さを示して、そこへ至る手段としての念仏を説いた。

 もちろん、そこでは、口で称える念仏ではなく、阿弥陀仏の姿をありありとイメージする観想念仏が最上のものとされていたという限界も見られるが、命終の際の念仏については、「臨終の行儀」(第六「別時念仏」)として、特に詳しい説明が加えられていた。

 懐奘にとっての<善きこと>は、遙かなる高みにあって、厳しい修行を通じて懐奘本人が求めるものでしかなかったが、源信にとってのそれは、極楽浄土としてイメージ化され、観想念仏や臨終の行儀によって、一応、誰にとっても辿り着けるだけの道筋が引かれていたのである。


■一たびの南無阿弥陀仏

 だが、源信に先立って空也が採用した戦略は、さらにラディカルなものであった。彼は、若くして諸国を遍歴した後、三十半ばより京の市中で念仏を説き始めた。その際、平安京の獄舎のあった東市の門では、囚人たちの見えるところに石の卒塔婆を建て、「一たびも南無阿弥陀仏という人の蓮のうえにのぼらぬはなし」という歌を書き付けて、囚人をはじめとする市井の人々を教化したといわれている(石井氏同書)。 

 人が一度でも「南無阿弥陀仏」と口にすれば、泥水から抜け出して美しい花を咲かせる蓮に上ることができる、すわなち、極楽浄土への往生が必定であるとして、法然が浄土宗を立てるより二世紀以上も前に、口称念仏による極楽往生を説いたのであった。

 たとえば、峻烈な修行を積み重ねることによって<善きこと>に到達することができるといった考え方は、努力すれば報われるといった因果応報の延長線上に置くことができるので、もちろんその実現は困難を窮めるとしても、論理としては、何ら違和感がない。

 しかし、「南無阿弥陀仏」と一度称えるだけで、<善きこと>が得られるなどという考え方は、常識にそぐわないだけでなく、自己否定の危うさをも感じさせるものである。というのも、一般的に、容易には得られないという稀少性こそが高い価値を生むのであって、誰もが簡単に得られるものに値打ちがあると思うのはむずかしいことだからである。

 源信は、本人の意図は別として、大きな流れからいえば、空也の行きすぎた思想を一旦常識の側に引き寄せ、態勢を整え直す役割をとることになった。すなわち、先にふれたように、地獄における凄惨さを強調することによって、<善きこと>に地獄の回避という至高の価値を与え、人々に強迫的ともいえるほどの切望を埋め込んでいった。

 そして、このことが救済の思想を花開かせる豊かな土壌となったのである。


 援助とは、もともと否定的な状況の改善を目指して、人によって行われる現世的な営為である。だが、もはやいささかの改善も望めないのではないかといったニヒルさの予感とともに、<善きこと>が姿を現す。

 そして、己をも含め、いかなる人によっても至りえないほどの彼方に<善きこと>が遠のくと、現実と<善きこと>とをつなぐ回路として、人を超えた存在による救済が要請され、援助は救済に包摂されて目立たなくなる。

 しかし、人々が救済を実感するのは容易なことではない。というのも、超えるとは届かないことでもあるので、実感できるようであれば、人を超えた存在によってとは言えなくなるからである。そのため、人々は、さらに、「人を超えた『人』」といった矛盾の体現を目の当たりにさせてくれる希有な人格を待望するようになるのである。