法然や親鸞が組み立てた救済の論理は、善をなしたかどうか、あるいは、悪をなさなかったかどうかなどといった道徳的な基準ではなく、自らが救われるはずもないという本人による内省を動因として展開された。

 さらに親鸞は、この論理を深化させていく中で、とりわけ晩年には、作善や造悪を含むすべてのはからいが無効であることを繰り返し宣言し、徹頭徹尾無力さを自覚して、すべてを阿弥陀仏にゆだねる思想を説くようになる(『末燈鈔』)。

 だが、あらためて考えれば、称えることや信じることはもちろんのこと、ゆだねることやはからいを捨てることさえもまた、結局は、自力のはからいに過ぎないのではないかという素朴な疑問も生じる。そのため、親鸞も述べているように、法然は「如来よりたまわりたる信心」との表現を用いて、信じることさえも阿弥陀仏のはからいとして捉えようとしていたのであった(『歎異抄』結文)。

 しかし、さらには、そうした信心をたまわるかどうかさえも問わない究極の思想が現れる。それは、熊野権現が一遍に示したものであった。


■「信不信をえらばず」

 一遍(一二三九-一二八九)は、今の愛媛県の豪族河野一族に生まれた。父親は、かつて京都で出家し、浄土宗西山派で修行したのちに還俗して名跡を相続している。一〇歳のとき、実母が死亡。父の勧めで出家し、一三歳のとき、太宰府で西山派に入門した。ところが、二五歳で父親の死をきっかけに還俗し、伊予に戻って一族を継いだ。当時の武士のならいとして複数の妻を娶ったとも伝えられている(『北条九代記』第一〇)。

 三三歳のとき、一族の所領争いから襲われ、反撃によって敵方を殺めたともされるが、これを機に再び出家した(『遊行上人縁起絵』第一)。すぐさま善光寺を参詣して、一旦故郷に戻ったものの、財産や家族を捨て、伊予の草庵や山岳修験の場であった岩屋に籠もって修行に打ち込んだ。

 そして、三六歳のとき、あらためて本格的な遊行に出立し、これ以降五一歳で命が尽きるまでの一五年間、一所不住を貫いた。すべてを捨てた彼は、まず、聖徳太子が建立した四天王寺で自誓受戒を行い、南無阿弥陀仏の六字名号を刷った念仏札を人々に配る賦算を開始した。その後、高野山を詣でて熊野本宮へと向う途中で、彼の思想を決定づけた有名なエピソードが起きている。

 『一遍聖絵』第三巻第一段によると、賦算しながら歩みを進めていた一遍の前に、一人の僧が現れた。念仏札を授けようとしたのだが、拒否された。信心が起きないのに受け取ったら、嘘をつくことになるからという理由であった。初めての経験に進退窮まった一遍は、ここで引いては誰も受け取ってくれなくなると考え、不本意ながらに「信心がおこらずともうけ給へ」と僧に札を押しつけた。

 その夜、腑に落ちないまま熊野本宮にて祈り、目を閉じると白髪の山伏が現れた。熊野権現に違いないと思う間もなく、歩み寄って話しかけてきた。曰く、「何と誤って念仏を勧めていることか。そなたの勧めで衆生は往生するのではなく、『阿弥陀仏の十劫正覚(無限の過去にさとりをひらいたとき)に、一切衆生の往生は南無阿弥陀仏と決定するところ也。信不信をえらばず、浄不浄をきらわず、その札をくばるべし』」と。

 熊野権現は、ここにおいて、まず、あらゆる人々の往生がすでに決まっていることを宣言し、その上で「信/不信」「浄/不浄」といった二項対立の無効を告げたのであった。

 これまでみてきたように、法然は、救済の論理を人々に弘める上で、「浄」の人でなければならなかった。それに対して、親鸞は、肉食妻帯の在家にあって、自らを「不浄」としたものの、だからこそ逆に、「信」を突き詰めた人であった。そして、一遍の前に立ちはだかったのは、まさに「不信」の僧だったのである。

 ところが、ここでは、対立する二項が実は「二つにあらず」という思想、すなわち、「不二」の思想が表明された。というのも、衆生の往生は、二項が対立するより以前に決まっているからである。その根拠は、「阿弥陀仏の正覚(さとり)」とされていた。


■法蔵菩薩の第一八願

 法然が『選択本願念仏集』(以下『選択集』)第一章において、「浄土の三部経」の筆頭に挙げ、後に親鸞が『教行信証』の冒頭にて「真実の教」として根本聖典と位置づけたのが『(大)無量寿経』であった。

 その説くところによると、はるか昔、世自在王という仏がいた頃、一人の国王がその説法を聞いて自らも仏になろうと決意した。彼は、国も王位も捨てて出家し、法蔵菩薩と名乗り、人々を救済するために四八の誓願(本願)を立てた。その後、計り知れないほどの長きにわたる修行の末、阿弥陀仏(如来)となり、西方に極楽浄土いう仏国土を構えて説法をしているとされている。

 そして、四八に及ぶ誓願の中でも、中国の善導大師にならって、法然や親鸞が最重要視したのは、第一八願であった。その意は、「わたし(法蔵菩薩)が仏になるとき、すべての人々が心から信じて、わたしの国(極楽浄土) に生れたいと願い、わずか十回でも念仏して、もし生れることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません(阿弥陀仏になりません)」(『浄土真宗聖典 浄土三部経』現代語訳、括弧内引用者)というものであった。

 この誓願は、細かな論点を捨象すると、結局、念仏をしても往生できない人がいるなら、法蔵菩薩は決して阿弥陀仏にはならないということになる。にもかかわらず、現に阿弥陀仏は極楽浄土を構えて説法をしている。

 救われたいと切望する人々にとって、事実に関係なく、極楽浄土の存在を疑うことはできない。浄土を疑えば、もはやどこにも救いはないからである。そして、極楽浄土を信じる限り、それを構える阿弥陀仏の存在も信じるしかない。とすれば、法蔵菩薩の誓願についても、すでに成就したと考える以外にはない。

 ただし、第一八願によれば、往生するには、「念仏して」という条件が付けられていた。しかし、熊野権現は、この条件を大胆にも極小化し、その上で、往生が「すでに決まっている」ことを最大限に強調して、一遍に対しては、念仏札をただ配ることによって、この「真実」を人々の知らせなさいと告げたのであった。

 「念仏して」という条件を無に近似させるためには、あらかじめ念仏を遍在させておけばよい。そのため、後に一遍は、念仏による安心(迷いのない境地)について尋ねられ、「よろづ生きとしいけるもの、山河草木、ふく風たつ浪の音までも、念仏ならずといふことなし」と答えている(「消息法語」)。すなわち、念仏をするかどうかに関係なく、そもそも世界は、すでに念仏で満たされているというわけである。

 ちなみに、本地垂迹説によると、熊野権現の本地仏は、まさに阿弥陀如来であった。


■救済から除外される人々

 熊野権現は、衆生の往生は「決まっている」と断言した。とはいえ、本来、第一八願の末尾には、さらなる一文が添えられていた。「唯除五逆誹謗正法」すなわち「ただし、五逆の罪(父、母、修行者を殺す、仏身を傷つけ出血させる、教団の和を乱す)を犯したり、仏の教えを謗るものだけは除かれます」(同書)という除外規定である。第一八願をもってしても、救われない人々が存在すると『無量寿経』は説いていたのであった。

 これに対して、法然は、『選択集』第三章の冒頭において、第一八願を引用する際には、唯除以下を省略しており、除外規定については、あまり重視していなかった。というのも、彼が同じく浄土三部経に位置づけた、『観無量寿経』の末尾近くには、五逆十悪(殺・盗・婬・妄など一〇の悪行)を為す下品下生の者でも、臨終の際に念仏を称えれば極楽世界に往生すると明記されているからである。

 この仏説に基づいて、前々回取り上げた「正如房へつかわす御文」をはじめとして、いくつかの消息(手紙)において、法然は、五逆十悪を犯した者でも往生を遂げることができると記している。

 ただし、『観無量寿経』でも、誹謗正法の者についてはふれられていなかった。そのため法然も、本願を疑う人が救われるかどうかは、阿弥陀仏にとっても「ただちからおよばざる事」であるとも述べている(「ある人のもとへつかはす御消息」)。

 こうした法然とは対照的に、この除外規定に対して徹底的にこだわり抜いたのが親鸞であった。彼もまた『教行信証』信巻の始めに第一八願を引用しているが、法然とは異なり、唯除以下も全文を載せている。

 さらに信巻では、前回ふれた「かなしきかな愚禿鸞」の嘆きに続いて、『涅槃経』を引きながら、往生の困難な三種の人たち、すなわち、大乗を誹謗する人、五逆罪の人、仏になる因を持たない一闡提(断善根)をあげ、父を殺害して王位を奪った阿闍世王を例に、その往生の可能性を考究している。

 そして、信巻の終わりで善導大師の『法事讃』より引いたのが「謗法・闡提、回心すればみな往く」(仏法を謗る者や仏となる因を持たない者も、回心すれば皆往生する)であった。ここでの回心とは、自力の心を捨てて、阿弥陀仏の本願を全面的に信じることであるが、親鸞は、そうした精神的な転回を一たびでも経験するならば、一切の例外なく救われると考えたのである(『歎異抄』第一六章)。


■不毛の地

 法然において、救済の条件は、念仏を称えることとされた。親鸞にとってのそれは、本願への信であって、謗法闡提については回心が求められた。

 しかし、熊野権現が一遍に託した思想では、往生にあたって、念仏も信も、さらには、回心さえも必要とはされていなかった。往生は、ただ、無限の過去に決まっている。すなわち、<善きこと>は、無条件に、もはや得られることになっているのであった。ここに救済の思想は、究極の姿を現す。

 とはいえ、無条件で往生できるのだとすれば、人々は、何もする必要がなくなる。作善にいそしむことも無意味なら、あえて造悪するのも無駄骨にすぎない。無条件とは、人々を方向付けるあらゆる指針が無効であることに等しく、すべてが肯定されると、人は、逆に身動きがとれなくなる。

 事情は、一遍にとっても同様である。人々に対して、法然には「称えよ」、親鸞には「信じよ」といった伝えるべきメッセージがあった。これに対して、一遍に残されたのは「皆の往生はすでに決まっている」という宗教的真実である。そして、ここからは「何をしなくても/してもよい」というメッセージしか導出することができない。

 しかし、これは、はたして人々に伝えるべき内容なのであろうか。いかなる努力にも意味がなく、いささかの忍耐も求められてはいないなどということが。

 人は、頑張って努力した、あるいは、苦しみに耐え抜いたという思いによって、ささやかな満足感を得る。もとより造像起塔はできなくとも、念仏を称えたり、本願を信じたりして自ら何かをなしたという手応えが得られるとき、<善きこと>に少しでも近づけたと心が安らぐ。

 だとすれば、たとえ無条件に往生できると決まっているのだとしても、法然たちのように、せめて衆生が往生のために努力すべきわずかな余地を、すなわち、念仏や信といった取るに足らないようにさえ見える条件を、あえて残した方がよいともいえる。

 もし、<善きこと>が、何の条件もなしに誰でも手にすることのできるものであったとすれば、たしかにそこは何をしなくても/してもよい世界ではあるが、同時に、何も生み出すことのない不毛の地になってしまう。そして、いくら往生という最善の結果が約束されているとしても、人は、どのように生きていけばいいのかもわからないまま、ただ立ちつくすしかないことになる。


 熊野権現が一遍を連れて行ったのは、不二の思想によって根こそぎにされた荒涼たる地であった。そこは、援助もまた、その根拠を失ってしまう世界である。すべてが救われるのなら、もはや、誰に対しても何もしなくてよいことになるからである。救済が遍く覆い尽くすとき、援助はその意味を失ってしまう。

 人は、そんな地で、はたしてどのように生きていくことができるのであろうか。