は じ め に

 

 「おそらく、あらゆる哲学的課題の内もっとも確かなのは、いまという時の問題、まさ しくこの瞬間においてわれわれが何者であるのか、という問題であろう」(フーコー、 1984a、p.241)

 

 この「われわれは何者であるのか」という問いは、哲学の独占物というわけではない。もちろん、哲学がこの問いを学問の中心的な位置に据えていることは認められるべきではあるが、しかし、一方でそれは、「私は何者であるのか」と言い換えられると、人が生きていく途上でしばしば出会うありふれた問いでもある。

 また、それは、人の「生」というものに何らかの形で関わり、それを対象として位置づけようとする学問にとっても重要な問いとして位置づけられるべきである。何者であるのかと問うことは、逆に、人の「生」をどのようなものとして学問的に位置づけようとしているのかと問うことであり、それは、その学問の根源的な視点を明らかにすることへとつながるからである。社会福祉学とは、まさにそうした学問の中心に位置するものである。

 社会福祉は、その実際において、人の「生」を大きく左右する。その人の日常生活だけではない。人生全体のあり方にまで深く影響を及ぼすものである。あるいは、人が自らの「生」をどのように意味づけるかということに直接関わるものであるといってもよいし、さらには、その社会が人の「生」をどのように扱おうとしているのかということを間接的に映し出す鏡であるといっても過言ではない。社会福祉とは、個々の援助場面において直接的に、あるいは、制度施策という形で間接的に、人の「生」に関わり続けている極めて現実的な営為なのである。したがって、そうした営為を学的に把握しようとする社会福祉学もまた、人の「生」を等閑視することは許されない。人の「生」の意味を問うことは、社会福祉学の基盤を問い直す根源的な問いであるといえる。

 だが、はたして社会福祉は、錯綜する現実から一歩退いて、人間が生きることの意味を学的に問うてきたであろうか。もちろん、理念としては、平等や人権の尊重、個別性の重視であるとかノーマライゼーションなど、多くの言葉が生み出され、磨かれ、あるいは淘汰されてきているのは確かである。だが、そうした理念や主張の中には、底の浅いスローガンに堕しているものが少なからずあることは否めない。それらは、単なるきれいごとにしか聞こえないのである。あるいは、閉鎖的なサークルでのみ通用するような独善的な主張に陥っている場合もある。恨みを晴らすために呪いの言葉を吐き続けても、それが広く受け入れられることはありえないのに。

 人の「生」には、深く悲しみをたたえた暗闇と軽やかな喜びにあふれる光輝とが織り込まれ、折にふれてその色合いを変えている。もちろん、社会福祉が暗闇をじっと見つめる眼差しを捨てたことはない。だからこそ、軽薄なスローガンに虚しさを覚えるのである。また、社会福祉が、にもかかわらず、かなたに輝く希望を見失ったこともない。だからこそ、呪いの言葉をそのまま追認するわけにはいかないのである。どんな暗闇の中でも光の在処を確信すること。どんな輝きの中でもうごめく闇の声を聞き取ること。それは、人の「生」を大きく左右する社会福祉の、また、社会福祉学の、そして、本論文の根本的な姿勢でなければならない。

 人の「生」に深く関わるとき、自らもまた一つの「生」であることを知るに至る。それが社会福祉のもつたとえようのない魅力であり、同時に恐ろしさでもある。他なる「生」を通じて、人は自らの「生」についての手ごたえを得ることができ、あるいは逆に、これまでの手ごたえを無に帰されることがある。社会福祉における援助場面とは、「生」と「生」とが互いにその意味を問い合い、確かめ合い、新たに創り出していく希有の場面に他ならない。そこでは、「私は誰か」という問いが「あなたは誰か」という問いかけの中に溶かされている。独白が対話という基盤に位置づけられるといってもよい。私を問う独白は、それだけでは「『[私は誰か]と問う私は誰か』と問う私は......」と無限の中を漂って足場をもつことがない。あなたとは、私を映す鏡であり、同時に私を吸い込む闇でもある。あなたに映る私は、私を喜ばせることもあれば、目をそむけさせることもある。あなたに吸い込まれることで私は、やすらぐこともあれば、おののくこともある。私とあなたとの出会いには、未知なるものがつきまとっている。

 およそすべての「学」は、未知なるものへのおののきと、知ることへの喜びを根底に有している。おののきが「学」に深さを与え、喜びが広さを与える。社会福祉学においては、より多くの「生」を意味づけようとする意志が広がりをもたらし、一つの「生」と関わり続けようとする意志が深みを加える。政策論と援助論とは、「生」の意味をめぐり、両者あいまって、社会福祉学を立体化しているのである。

 そして、本論文は、何よりも深みに関心を注ぐものである。それは、本論文が援助論の系統に属するものであるということを示すにとどまらず、援助論をさらなる深みへと導こうとしているという意図をも示している。これまで援助論は、私とあなたが「生」の意味付けをめぐって対話する場面を、「援助する側-援助される側」、すなわち、「意味づける側-意味づけられる側」という関係に固定した上で、「いかに援助するか」と問うことによってその領域を拡大し、技法を精緻化させてきた。そこでは、援助する側の「生」が問われることはあまりにも少なかったのである。だが、本論文は、そのように固定化された援助関係を取り払うことによって、「いかに」の問いではなく、「援助とは何か」の問いへの接近を試みるものである。従来の援助論が破綻する地点で、あるいは、「援助する-援助される」の一方向的な援助関係が成り立たない地点で生起していることがらを記述し、その意義を検討することによって、援助論の射程をさらなる深みへと到達させることが目指されている。

 セルフヘルプ・グループ(Self-help Group:以下SHGと略す)とは、まさに、一方向的な援助関係の向こう側に位置するものである。それは、共通の問題や課題を抱えた者たちが相互に援助し合う場として生み出されたものだからである。そこでは、人の「生」が他の「生」と向き合う中で、自らの意味を問い、確かめ、新たなものへと生まれ変わっている。それは、「生」と「生」とが直接出会う場面であり、もともと援助というものが生まれ出た原風景をなしている。SHGにおける「生」の意味を問うことによって、援助は、自らを生み出した深みに再びふれ、援助自身の意味を再び模索し始めることになる。本論文では、そうした契機の一つを提供することが目的とされているのである。

 ここでは、「われわれは何者であるのか」という、人の「生」に関わる根源的な問いに対して、きわめて限定された立場から、きわめて限定された視角に基づいて、回答の可能性が探られる。その限定された立場とは、「精神障害者」という立場であり、限定された視角とは、「SHGにおいて」という視角である。すなわち、本論が取り上げる問題は、「精神障害者とは、SHGにおいて何者であるのか」という問題であるといってもよい。また、従来より、「私とは誰か」という問いに対する回答は、アイデンティティと呼ばれてきた。したがって、SHGにおける精神障害者のアイデンティティが本論のテーマであるともいえる。

 だが、精神障害者であることは、すでに、本人にとってのアイデンティティなのではないだろうか。だとすれば、精神障害者というアイデンティティのアイデンティティを問うという奇妙な問いが提出されていることになる。ここに「SHGにおいて」という視角を導入することの意味がある。SHGにおいて、精神障害者であることは、固定化された自明のアイデンティティではなくなってしまう可能性があるからである。精神障害者というアイデンティティが変容を被る、あるいは、精神障害者というアイデンティティを突き破る何かが生まれてくるといってもよい。逆にいえば、SHGという場は、そうした何ものかを生み出す可能性に満ちているともいえる。SHGにおいて、精神障害者というアイデンティティが新たなアイデンティティに変容する可能性を示すこと、それが本論の第一の目的である。

 とはいえ、アイデンティティの変容は、決して容易に成し遂げられるものではない。アイデンティティとは、確かに一方で自分のものでありながら、他方で、それは決して自由に選びとられるものではなく、押しつけられ貼りつけられて、本人にはいかんともしがたい圧力を感じさせるものでもある。とりわけ、精神障害者であることのように、基本的に本人が望まないアイデンティティをまとわなければならないとすれば、それは、何かに押しつけられたものとして、本人には受け取られることになる場合も少なくない。したがって、SHGがそのような圧力に対してどのような戦略的意義を有しているのかということを明らかにすることが第二の目的となる。だが、この二つの目的は、精神障害者というアイデンティティに焦点をあてるか、SHGという場の機能に焦点をあてるかの違いでしかなく、同じことの表裏にすぎない。精神障害者というアイデンティティにかけられる圧力とSHGとの緊張関係を描くことがここでは目指されている。

 アイデンティティを押しつけてくるもの、それを序章では、アイデンティティ・システムと名付けている。それは、各人のアイデンティティを構成要素として成り立つシステムであり、人を何者かとして配置しようとする欲望でもある。精神障害者であることに限らず、すべての人は、アイデンティティ・システム上における自らの位置を探し求めることになる。

 アイデンティティ・システムは、人に何者でもないことを許さない。人を何者かとして配置するためにアイデンティティ・システムのとる戦略を、ここでは大きく二つに分け、質的差異に基づく「カテゴリー化」と量的差異に基づく「ライン化」と名付けている。例えば、「精神障害者であること」はカテゴリー化による位置づけであるが、「どのような精神障害者であるのか」という位置づけはライン化によって行われる。第一章では、一人の女性による精神病院入院体験を素材としてアイデンティティ・システムの戦略を事例的に概観し、精神障害者というアイデンティティがどのように付与され、本人に内面化されていくのかを検討する。

 アイデンティティ・システムの暴力にさらされた精神障害者にとって、抑圧され傷ついた自分を癒し回復していく方途の一つがSHGである。第二章では、アイデンティティ・システムの暴力に対してとりうる対抗手段を考察し、その中からSHGがとる最も先鋭的な対抗戦略としてオルタナティブ・サービスを紹介するとともに、第三章で、日本における精神障害者団体の現状を報告して、SHGにおける「アイデンティティを求めての共同作業」という特性を浮き彫りにする。

 アイデンティティ・システムは、現実において、国家や機関、世間や家族といった形態を通じて各人にアイデンティティを押しつけてくる。精神障害者というアイデンティティに関しては、医師や看護者を始めとする援助専門職がその中心的な役割をとる。しかし、そうしたシステムの手先的な役割に対する援助者の側からの反省もまた提出されてきている。第四章では、アメリカのソーシャルワーク理論の動向から、援助者自らが自身の権力性を自覚していく様子を紹介し、第五章では、精神障害者を地域で支える実践家の体験や思想から、支援体制や援助のあり方を模索し、精神障害の規定を踏まえて、従来の本人を援助によって変えようとする「変える援助観」と本人ではなく周囲を本人に合わせていこうとする「支える援助観」とを対比して、後者の意義を検討する。

 最終章では、まず、従来の「変える援助観」とアイデンティティ・システムの戦略との同一性が指摘される。続いて、アイデンティティ・システムや変える援助観への対抗戦略が模索されるが、その起点は、自分のアイデンティティを変えようとすることに対する無力さの自覚におかれている。そうした無力さの自覚が、逆に、新たなアイデンティティを求めての運動を展開する契機となりうるのである。その転回点は、自分を変えなければならないという呪縛からの解放であり、周囲を変えていくために仲間と共同していこうという意志をもつことでもある。SHGは、この転回点を生み出す潜在力を有している。すなわち、SHGには、アイデンティティ・システムに対する戦略的な意義が含まれているのである。最後には、アイデンティティ・システムによって傷つけられた精神障害者にとってのSHGがもつ意義を整理し、そこで生じている逆説的な様相、すなわち、アイデンティティ・システムの戦略がもたらす傷の深さこそが、アイデンティティ・システムの戦略を無効にしうるという逆説を浮き彫りにしたいと思う。

 SHGとは、一つの希望であり、そこには汲み尽くしえない可能性が秘められている。その一端をたとえわずかでも明るみに出すことができればと願うばかりである。