以下の文章は、対人援助の理念である「エンパワメント」について書いたものです。

 初出は、『精神科臨床サービス第3巻第4号』(2003)所収の「エンパワメント」です。

■はじめに

 

 ここ20年の間に、エンパワメントという概念は、当事者運動をはじめとして、ソーシャルワークや看護、教育や経営、発展途上国の開発にいたるまで、急速に、そして、広範に普及してきている。そうした状況の中で、ここでは、ソーシャルワークの領域を中心に援助理念としてのエンパワメントについて、その特徴と課題の整理を試みる。

1.運動理念から援助理念へ

 1955年、合衆国南東部のアラバマ州モンゴメリーで、黒人女性が市営バスの座席を白人に譲らなかったとして逮捕される事件が発生した。この事件をきっかけに、Martin Luther King Jr.牧師を指導者とする非暴力によるバス・ボイコット運動が大規模に起こり、人種差別条例等の撤廃を求める公民権運動(黒人解放運動)が一気に全米各地へと拡大した。

 この運動は、1968年の同牧師暗殺をもって実質的に終息することになるが、その間、社会的な差別や抑圧によってさまざまなパワーを奪われた黒人たちが、自らをコントロールするためのパワーを取り戻すプロセスという意味で、「エンパワメント」という言葉を運動理念として用いたのであった。そのため、現在でも、黒人による政治活動は「ブラック・エンパワメント」と呼ばれている*1。

 また、公民権運動は、60年代以降、フェミニズム運動や同性愛者解放運動などにも大きな影響を与えたため、エンパワメントは、これら反差別・反抑圧運動のキーコンセプトとしても広く用いられるようになった。こうした傾向は現在でも続いており、たとえば、1995年9月に北京で開催された第4回世界女性会議の行動綱領は、「女性のエンパワーメントに関するアジェンダ」として位置づけられている。

 このように、エンパワメントは、もともと、差別や抑圧を受けてきた人々がそうした状況に抵抗し変革を求めていく際の運動理念として位置づけられていたのであったが、これに対して、この概念をソーシャルワークの領域に導入し、援助理念として再規定したのがSolomonであった*2。Solomonは、南カリフォルニア大学のソーシャルワーク大学院で「黒人居住地域におけるソーシャルワーク実践」と題する授業を担当しながら、援助専門職の実践に浸透している人種差別の問題に焦点を当て、エンパワメントを援助理念として位置づけるようになったという。

 Solomonの定義によれば、エンパワメントとは、「スティグマを押された集団に属しているという理由で経験してきた差別的待遇によって、クライエントが無力な状態(powerlessness)に陥っている場合に、そうした状態を改善する目的で行われる一連の活動に対して、ソーシャルワーカーや他の援助専門職がクライエントと共に関与するプロセス」(p.29)であるとされている。

 また、「無力な状態」とは、「個人的あるいは集団的な目標を達成する際に、資源を獲得して活用することができないこと」と規定されているが、こうした状態に陥るのは、マイノリティ・グループのメンバーであることを理由として、そうした集団やその個人に否定的な評価が与えられてきた結果であって、そのために、社会的に価値のある役割を遂行して、個人的な満足感を得ることができなくなっているからなのであった。

 このように、Solomonは、否定的な評価に基づく実際的な差別的待遇を改善していく援助活動の理念として、エンパワメントを位置づけたのであるが、無力な状態におかれているのは、もちろん黒人のみならず、たとえば、高齢者や障害者、児童やホームレスの人々など、ソーシャルワークがその援助対象としてきた人々もまた同様であった。そのため、エンパワメントは、1980年代以降、ソーシャルワークの援助理念として、幅広く支持されていくようになり、中核的な位置を占めるまでになってきたのである。

1:Jennings, J. : The Politics of Black Empowerment : The Transformation of Black Activism in Urban America. Wayne State Univ. Press, Detroit, 1992.(ジェニングス『ブラック・エンパワーメントの政治』(河田潤一訳)ミネルヴァ書房,京都,1998)

2:Solomon, B. B. : Black Empowerment: Social Work in Oppressed Communities. Columbia Univ. Press, New York, 1976.

2.四つの活動レベル

 エンパワメントという援助理念は、そもそもある個人が無力な状態に陥っているとすれば、それは、その本人に原因があるというよりも、否定的な評価を投げつけてくる抑圧的な環境にこそ原因があるとする考え方に基づいている。すなわち、1930年代以降、どちらかといえば、クライエントの個人的側面に問題原因の所在を求めがちであったソーシャルワーク理論に対して、明確に異議を申し立て、方向転換を企てたのである。このことは、エンパワメント概念のもつ大きな功績であるといえる。

 そして、こうした視点の変更によって、エンパワメント志向のソーシャルワークは、抑圧的な環境を変えていくために、これまで以上に包括的な活動として位置づけられることになる。その活動領域は、以下の4つのレベルに整理することができる*1。

 1:個人レベル  クライエントとは、もともと無力な存在なのではなく、差別的な待遇や否定的な評価がクライエントを無力にし、さらには、クライエント自身もまた自らを無力な存在として自己規定せざるを得ない状況に追い込まれてきたのであった。そのため、まず援助者は、信頼関係の中で、クライエントが本来有している対処能力をお互いに確認し、資源へのアクセスや利用についての情報を提供するとともに、クライエントを無力な状態に陥れてきた継続的な政治経済的圧力に対する批判的な思考をクライエントが持てるように支援していく必要がある。

 2:集団レベル  エンパワメントでは、マイノリティ・グループのメンバーであることに対する否定的な評価がクライエントを無力化していると考えられていた。そのため、第二のレベルとしては、同様の状況におかれてきたクライエント同士をネットワーク化したり、さらには、グループ化することによって、「私個人の問題」を「私たち(マイノリティ・グループ)の問題」として捉え直す契機を提供することが必要とされる。

 また、こうしたグループでは、メンバーが体験を共有しているため、問題の相互理解が促進されるだけでなく、心理的な相互支援も発生し、これまで否定的評価を内在化させて自らを無力な存在と捉えてきたメンバーの自己認知をより肯定的なものに変更するといった、いわば「意識高揚(consciousness-raising)」が生じることも少なくない。

 3:組織レベル  クライエントは、既存のサービスや資源についての知識や情報を自ら入手していくだけでなく、既存のサービスで対応できないニーズについては、新たなサービスの開発を求めて意思決定機関へ参画したり、さらには、自分たちでNPO団体等を創設して、自らサービス提供者となることが求められることもあり、そうした活動への支援もまた重要となる。

 4:政治レベル  より広いレベルでは、社会政策の変革、制度の創設や改善、さまざまなサービスや資源の開発などに向けて政治的な活動を行うことも必要である。そのため、全国的な組織への参加を通して、個人的な問題の政治的位置づけを明確化していくことの支援やマイノリティ・グループによる政治的活動と協力していくことも求められる。

 このように、エンパワメントを援助理念とする活動はかなり包括的であるため、人によって、政治的な活動を重視する立場から、感情や自己認識といった個人の内面を重視する立場、あるいは、両者の接点として、グループでの意識の高まりを強調する立場、組織活動を促進する立場まで、レベルの異なるさまざまな活動が展開されている。

1:Cox, E. O. & Parsons, R. J. : Empowerment-Oriented Social Work Practice with the Elderly. Brooks/Cole Publishing Company, Belmont, 1994.(コックス,パーソンズ『高齢者エンパワーメントの基礎』(小松源助監訳)相川書房,東京,1997)

3.パートナーシップ

 援助理念としてのエンパワメントのもつ意義は、まず、クライエントからパワーを剥奪して無力な存在に追いやっている抑圧的な環境に焦点を当て、そこから包括的な活動領域へとソーシャルワークを解き放ったことであった。だが、この概念がもたらしたもう一つの功績は、抑圧的な環境の中には、他ならぬ援助専門職も含まれるのではないかという自己批判的な視点を援助理論の中に持ち込んだことである*1。

 この視点を早くから打ち出したのがHasenfeldであった*2。その主張によれば、専門職のもつパワー(権力)の源は、突き詰めていくと、組織や機関の権限に基づいて、サービスや資源をコントロールできることに帰着する。ソーシャルワーク実践というのは、資源の交換に他ならず、資源を提供する側はパワーをもち、資源を提供してもらう側は依存状態にあるといえる。つまり、ワーカーとクライエントの間では、資源の配分をめぐる「パワー(権力)-依存関係(power-dependence relationships)」が演じられているのである。

 Hasenfeldは、だからこそ、ソーシャルワーク実践には、援助理念としてのエンパワメントが必要であると主張する。というのも、援助者とクライエントとの間におけるパワーの非対称性や格差を少しでも是正するためには、エンパワメントによって、クライエントが環境に対するコントロールを取り戻すよう援助しなければならないからである。

 また、援助関係における非対称性を減じる方策は、「パワーの共有(sharing)」とも呼ばれているが、その理想型においては、Pinderhughesの表現を借りると、「パワーを共有するということは、クライエントをエンパワーすることであり、かつ、クライエントをエンパワーすることがわれわれ自身をエンパワーするのである」といった相互的かつ対等な関係性が生じることになる*3。そして、これらのパワーの共有や対等性、相互性といった特徴をふまえながら、Hartmanは、総括的に、「エンパワーする関係性を表現するには、おそらく、パートナーシップが最も適切であろう」と述べている*1。

 このように、エンパワメントの概念は、クライエントからパワーを剥奪する抑圧的な環境の一つとして援助者を捉え直し、自己批判的な視点を導入して、援助者が独占しがちなパワーをクライエントとの間で共有することによってパートナーシップを実現することの必要性を強調したのであった。

1:Hartman, A. : The Professional is Political. Social Work,38(4),365-6,504,1993.

2:Hasenfeld, Y. : Power in social work practice. Social Service Review,61(3).469-483,1987.

3:Pinderhughes, E.B. : Empowerment for our clients and for ourselves. Social Casework,64, 331-338,1983.

4.エンパワメントのパラドックス

 とはいえ、援助者がクライエントとの間にパートナーシップを実現していこうとする際には、大きな壁が立ちはだかっている。たとえば、Gruber & Trickettは、公立高校で、あるグループが他のグループをエンパワーするよう制度的に位置づけたところ、エンパワメントの効果が減少する事実を明示し、それを「エンパワメントのパラドックス」と名付けたのであった*1。すなわち、ある人が他の人を意図的にエンパワーしようとすればするほど、エンパワーされた人は、自らエンパワーしていく力を失っていくのである。

 この指摘を受けてSimonは、「援助者がクライエントをエンパワーする」ことと、「クライエントが自らをエンパワーするように援助する」こととの、微妙なしかし重要な違いを強調しながら、ソーシャルワーカーに「エンパワーされた」クライエントというものは、自律性の獲得に向けた基盤を失ってしまっていると断言している*2。

 エンパワメントを援助理念として意図的に援助を提供しようとすると、逆にエンパワーされないというパラドックスが発生してしまう。これは、援助者の姿勢の問題でもなければ、技法上の問題でもなく、エンパワメントという概念に内包された、いわば本質的ともいえるパラドックスである。

 それというのも、先に見てきたように、もともとエンパワメントという概念は、運動理念として提唱され、抑圧されてきた当事者たちが自らパワーを取り戻していくプロセスを意味しており、その際には、自分たちが自分たちで自分たちのパワーを獲得するといった主体性についての整合性がたしかに保たれていた。

 しかし、それが援助理念として位置づけられると、援助者がクライエントにパワーを獲得「させる」という奇妙な屈折が発生し、援助者がパワーを付与すればするほど、クライエントとしては、パワーを付与「される」ことになって、自ら主体的にパワーを獲得していく力が弱体化してしまうという結果が導出されることになったのである。

 そして、残念なのは、援助者の側でこのパラドックスを真摯に受け止める者が決して多くはなかったということである。そのため、あらゆる援助がただエンパワメントの名の下に行われてしまうという理念の空疎化が生じただけでなく、本来の意味を大きく離れ、「要するに、ソーシャルワークの言語で、『クライエントのエンパワメント』と呼ばれるものは、別の言語を使えば簡単に、クライエントを『降参させ』、『あきらめさせる』と言い換えることができる」*3などと揶揄嘲弄される事態までもが生じてしまったのであった。

 繰り返すが、援助理念としてのエンパワメントが、クライエントの抱える無力さを本人の資質や責任に帰すのではなく、抑圧的な環境へと目線を向け変えたことの意義は高く評価されるべきである。また、そうした抑圧的な環境の一端を援助者もまた構成しているのではないかという自己批判を呼び起こし、「パワーの共有」や「パートナーシップ」の重要性を明示したのも、エンパワメント概念の計り知れない功績であるといってよい。

 だが、そこには、クライエントをエンパワーしようとすればするほどに、クライエントをエンパワーすることができなくなるというパラドックスもまた潜んでいるのであった。そして、このパラドックスがエンパワメントという概念を運動理念から援助理念へと変更したことにともなって必然的に発生したものであるとするならば、ここで求められているのは、パートナーシップの名の下で、このパラドックスを看過したり、あるいは、乗り越えるなどといった安直な幻想をもつことではありえないことになる。

 エンパワメントを援助理念とする限り、援助者は、パラドックスから逃れることはできない。だとすれば、それを見据えながら、なおかつ、その都度手探りで、クライエントとともにパートナーシップのあり方を模索していく途しか残されていないのであって、エンパワメントとは、それを掲げれば万事が足りるといった錦の御旗なのではない。

 逆に、それは、善意と自己欺瞞との間で、援助者を絶えず自己点検へと向かわせる駆動装置なのであって、パラドックスを踏まえた上でのパートナーシップとはどのようなものなのか、はたしてそれは実現可能なものなのか、といった問いをめぐって、クライエントと援助者とを「終わりなき対話」へと追い込んでいくような概念なのである。

おわりに

 エンパワメントという概念には、たしかに、不思議な魅力がある。もちろん、所詮はパワー信仰の枠内から一歩も踏み出していないではないかといった批判も可能ではあるのだが、とはいえ、それは、援助というものが単線的な論理や一片の理念によっては決して語り尽くせないものであることを己が身をもって示してくれている。

 そもそも、「治療は、どんなよい治療でもどこか患者を弱くする」*4ともいわれるように、援助には、本質的にパラドックスが内包されている。だからこそ、援助とは、底知れぬ深みをもつ営為なのであって、エンパワメントという援助理念もまた、援助にまつわる根源的な問いをクライエントと援助者とに突きつけ続け、両者の対話を深めていく契機の一つなのであろうと思われる。

1:Gruber, J & Trickett, E.J. : Can we empower others? : The paradox of empowerment in the governing of an alternative public school. American Journal of Community Psychology,15(3),353 -371.1987.

2:Simon, B.L. : Rethinking empowerment. Journal of Progressive Human Services,1(1),27-39,1990.

3:Margolin, L. : Under the Cover of Kindness: The Invention of Social Work. Univ. of Virginia Press, 1997.(マーゴリン『ソーシャルワークの社会的構築』(中河伸俊、上野加代子、足立佳美訳)明石書店,東京,2003)

4:中井久夫:精神科治療の覚書.日本評論社,東京,1982.