以下の文章は、自己決定を尊重する際に生じる諸問題を再検討することによって、自己決定そのものをめぐる問題状況の一端にふれることを目的としたものです。

 初出は、『福祉科学とコミュニティ第1号』(2000)所収の「『自己決定』をめぐる問題状況 -決定空間の変容に向けて-」です。

1.パターナリズムから自己決定へ

 自己決定が主題化されてきた背景には、パターナリズムに対する反省があった。もともと、パターナリズム(父権主義)とは、「親が、?子どもに対する権威によって、あるいは、?子どもを保護するという理由で、子どもに強制を加えること」を指していたが、そこから転じて、国家や社会が同様の理由でその成員に強制を加えることを指すようになり、さらに転じて、誰かを保護する立場にある者(医療あるいは社会福祉従事者など)がその者の保護を理由に強制を加えることを意味するようになったといわれている。

 このパターナリズムの本質は、本人に対する強制、すなわち、本人の意に反することを強いているという点であるが、他者への強制を正当化する根拠としては、まず、上記?の「権威」があげられている。すなわち、圧倒的な力の差によって、現実的に逆らえない状態を背景とすることであるが、この場合は、権威者の恣意性に応じて、いかなることでも強制しうることになるため、現代では、正当化の根拠として認められることはない。

 もう一つの根拠は、上記?の「本人のためである」ということ。つまり、本人のために、本人以外の者が、本人のことを決めてしまうことであり、現状のパターナリズムはこの本人の利益(保護)を根拠としている。

 だが、ここでの問題は、強制をも含む何らかの決定が「本人のためである」ということは、どのように証明されるのかということである。すなわち、パターナリズムの問題とは、「本人のため」であるということを誰の目にも明らかなようには説明できないことであり、しかも、そこに権威がからんで「本人のため」といいながら、程度はさまざまにせよ「周囲の人の利益」を考慮したり、優先させたりしている場合が少なくないことなのである。しかし逆に、この問題は、もし、純粋に本人のためであることが説明できるなら、逆説的ではあるがパターナリズムを否定する理由はないことをも同時に示している。そのため、たとえば、救急医療などは、原則的にパターナリスティックにならざるを得ないが、緊急時における生命維持という理由で、社会的には許容されている。

 とはいえ、本人の意思を不問に付して、なおかつ、それが本人のためであるという説明は、すべての場合ではないにせよ、やはり不純である場合が少なくない。すなわち、本人の利益のためと言いながら、援助や決定をする側の利益を完全に排除したものとは言えない場合が多い。そこで、本人の利益は、やはり本人が判断すればよいのではないか、本人のためになるかどうかは本人が決定すればいいのではないか、という考え方に基づいて「自己決定の尊重」がクローズアップされてくることになる。

 自己決定を尊重しようという考え方は、このように周囲の者の恣意的な判断や決定を可能な限り排除し、本人に関することについては、本人の決定を優先させようとするものであり、「自己のことを」「他者が」「決定する」パターナリズムに対して、「自己のことを」「自己が」「決定する」ことによって、パターナリズムの弊害、すなわち、恣意性(周囲の人の都合)を乗り越えようとするものなのである。

2.自己決定を尊重する際の問題

 パターナリズムを乗り越えるべく打ち出されてきた自己決定の尊重という原則は、しかし、パターナリズムとは別の新たな諸問題を引き起こしている。それらは、便宜的にではあるが、大きく?決定不能の問題、?決定内容の問題、?決定放棄の問題、の三つにわけることができる。まずは、それぞれがどういう問題なのかというイメージ作りを行う。

 1.決定不能の問題

 自己決定の尊重は、本人の利益は本人が最もよく知っているという前提に立っている。だからこそ、「本人の利益」は、他者ではなく、まさに本人が決定すべきだということになる。だが、この前提が成り立たない場合、すなわち、本人の判断能力では、自分の利益を判断できない場合にどうするかというのが「決定不能の問題」である

 ただし、この問題については、問題の成立自体が問われなければならないことが少なくない。つまり、周囲の人が本人を自己決定のできない人と決めつけていないか、つまり、本当にその方には意思能力がないのか、読み取れていないだけではないかという反省と読みとろうとする姿勢が必要となる。たしかに一定レベル以上の判断が不可能である人はいるが、根本的な快不快を表明したりすることは赤ん坊でも可能で、啼き声を聞きつけて、何が不快なのかを必死に読みとろうとする母親の姿勢を忘れてはならない。もし、周囲の人のそうした姿勢がないと、決定しているのに決定不能であるかのように決めつけられてしまうことがある。

 2.決定内容の問題

 決定内容の問題は、本人の決定がなされた上で、その内容に何らかの問題がある場合を指している。事例検討会などで提出される頻度が多い問題であるが、とりあえず二つに分けると、一つは、本人が利益を得さえすれば、周囲の人々はそれを無制限に受け入れなければならないのかという問題である。もちろん、金がほしいから強盗するなどということは認められておらず、通常は「周囲の人々の利益を侵害しない限りで」という制約がつけられるが、実際には、一つのパイを何人かで分け合うような状況が現代社会には多く、誰かの利益が他の損害であることは決して少なくない。たとえば、福祉の現場でも、施設入所か在宅かといった選択の中で、家族や近隣との調整に苦労する場面は多い。

 もう一つは、昨今盛んな自己決定論の論点でもあるのだが、では、他人に迷惑さえかけなければ、何をしてもいいのかという問題である。たとえば、甘いものが好きだという本人の好みに対して、それでは身体によくないと思われる場合、あるいは、肝機能障害がありながらも「飲んで死ねたら本望だ」とばかりに飲酒に走る場合、さらに、福祉には直接関係ないようだが、援助交際の問題なども含まれる。本人の希望と周囲の者の判断との齟齬という点では、現場で最も多く生じる問題でもあって、善意のパターナリズムが心に浮かんで葛藤する場面でもある。

 なお、その他にも、たとえば、パイロットになりたい、作家になりたい…などいった、ある意味非現実的とも思われるような意向もあって、気持ちは分かるけど、無理なのではと思われることもある。

 3.決定放棄の問題

 三つ目の大きな問題は、いわゆる「お任せします」といった決定放棄の問題であり、自分での判断を放棄し、場の流れにまかせたり、権威的な人の判断を鵜呑みにする場合などが挙げられる。日本人に多いといわれ、個人の主体性が未熟だとか、集団主義だとか、だから軍国主義を止められなかったんだなどと批判されることまである。ただし、この問題は、一番簡単な問題のようだが、後述するように深い論点を示している。

3.目的としての/手段としての自己決定

 以上のように、自己決定尊重の考え方は、大きく分けると三つの問題群を発生させている。だが、これらがなぜ問題として浮かび上がってくるのかを考えることで、自己決定について、もう一段深まった議論ができるのではないかとも思われる。まずは、決定不能の問題から再検討してみる。

 1.決定不能の問題再考

 繰り返すが、自己のことを他者が決定するというパターナリズムに対して、それを越えるために自己のことは自己が決定するという自己決定が重視されてきた。なぜ、他者ではなく自己が決定した方がいいのかといえば、他者よりは自己の方こそが、自己の利益をよく知っているはずだからである。つまり、他者は、自己の利益がわからない、わかろうとしないことが問題だからであった。

 この点を踏まえて決定不能の問題をもう一度見直すと、決定不能の問題とは、他者と同様に自己もまた自己の利益がわからない、もしくは、他人に伝えられないということである。もともと自己決定は、自己の利益を最も知っている人が決定すべきだという考え方であるが、決定不能の問題は、自己の利益を知っている人が自己であるとは限らないということを示しているのである。そこから、他の人が決定してもよいという合意を引き出すのは困難なことではない。

 とはいえ、本人と直接の利害関係がある人は、パターナリズムの場合のように、本人の利益よりも自分の利益を優先させる可能性が高い。そこで現在考えられているのは、直接の利害関係をもたない、もしくは、本人がかつて委任した人としての第三者による決定である。実際、「成年後見制度」やオンブズマン制度などは、本人と直接利害関係を持たない第三者が権利擁護の観点から判断する仕組みであり、その際には、知的障害の分野では「ノーマライゼーション」、あるいは、痴呆老人や精神障害者の場合には「生活の継続性」(痴呆や障害者になる前の生活がどうであったのかを想定して、その生活の継続性を可能な限り確保すること)といった別の原則をたてて判断することになる。

 しかし、他者が決定するという意味では、これ自体はパターナリズムに陥る危険性を完全に否定することはできない。したがって、本人の自己決定を侵害しているという自覚的な反省が絶えず必要とされる。いずれにせよ、決定不能の問題に対しては、本人の利益を目的としてその実現を図っていくという対応策が採られているといえる。

 2.手段としての自己決定

 この決定不能の問題、および、それに対する現状での解決策が示しているのは、自己決定とはいっても、それは、本人の利益を実現するための「手段」に過ぎないということである。何かを決定することの根本は、自己の利益の実現にある。別の言い方をすれば、自己が決定するということは、自己の利益を実現するために優先的に採用されるべき手段であるということなのであった。つまり、自己の利益実現という目的に対して、自己が決定することは手段の一つにすぎないのであって、だからこそ、自己の利益実現が明確に説明できるならば、場合によっては、他者が決定することも手段の一つになる。

 手段として自己決定を捉えるということは、本人の利益を実現するために可能な限り自己決定を優先させるということであって、いかなる場合も自己で決定しなければならないという立場ではない。決定不能の問題とは、自己決定というものの「手段性」を浮き彫りにする。

 3.目的としての自己決定

 こうした考え方に対して、とにかく自己が決めることが重要なのであって、先の決定内容の問題は棚上げにして、自分で決めることを何よりも優先させる考え方もある。これは、自己決定を実現すべき目的と捉えるものであるといえる。

 もちろん、自己決定を目的として捉える考え方には、後述するように、非常に重要な意義があるが、同時に問題も多い。とりわけ、援助する立場にいる人が自己決定を目的として捉えると、どうしようもない袋小路に陥ることになる。事例検討などで上がってくる現場の援助者の葛藤や苦悩は、ほとんどの場合、自己決定を手段ではなく目的として捉えることに起因している。良心的な援助者ほど、自己決定を尊重しなければいけないという気持ちから、いつしか自己決定の背後にあるはずの本人の利益を見失って、自己決定を目的にしてしまっている。あるいは目的と手段を混同している。

 だが、一旦、自己決定を目的として捉えてしまえば、先に挙げた自己決定をめぐる諸問題は、いずれも原理的に解決できないことになる。まず、決定不能の場合は、手の出しようがない。また、決定内容にいくら問題があっても、それを黙認せざるを得ない。さらには、決定放棄に対しては、決定を強制せざるを得ない。つまり、援助者が目的として自己決定を捉えれば、現実的に援助は成り立たないのであり、自己決定は、本人の利益実現の手段として捉えられるべきなのである。ただし、注意すべきは、目的として捉えることそれ自体に問題があるわけではなく、援助者が採用することこそが問題なのだといえる。

4.対話の終結/出発点としての自己決定

 次に、援助者は、目的ではなく手段として自己決定を捉えた方がよいということについて、それを対話という観点から、決定内容の問題を手がかりに考えてみる。

 1.決定内容の問題再考

 決定内容が問題なるのは、本人による決定と周囲の人(援助者や家族など)による考えとが食い違っている場合である。たとえば、甘いものしか食べない、酒をやめない、自宅に帰りたがる…。ここで、パターナリズムの場合は、食い違いが生じると一方的に本人の意見が抑圧されたり圧殺されてきた。そして、その反動で自己決定が重視されるときは、逆に、本人の意見を絶対的なものと見なす傾向がある。つまり、決定を行う自己とは誰も侵すことのできない聖域であるかのように受け取られている。もちろん、パターナリズムの反省を踏まえれば、こうした捉え方もわからないではないが、一旦自己を聖域としてしまえば、周囲の人々は何ら手を出せず、決定内容の問題は全く解決不能に陥る。

 だが、聖域としての自己、不可侵なものとしての自己というと聞こえはいいが、その内容は、切り離された自己になっている。つまり、周囲の人々から切り離されたものとして位置づけられているからこそ不可侵になっており、そこでは周囲の人々との関係性が見えなくなっているのである。

 ここで問題なのは、本人の自己を切り離したものと位置づけるやり方は、実は、パターナリズムによる利用者の捉え方と同一だということである。パターナリズムとは、極端にいえば、援助者の都合のいいように本人を操作することであった。操作するためには、援助者とは切り離して、あたかも一つのモノであるかのように扱うことになる。すなわち、そこでは、本来生じているはずの相互的な関係性が無視され、一方的な関係がつくられている。援助者は、自己決定を重視するがゆえに本人の自己を切り離し、手出しのできないものにしたのではなく、もともと充分な関係性をつくってこなかったがゆえに、パターナリズムにも陥りがちだし、その反動としての自己決定では何の手出しもできないだけなのではないかともいえる。

 2.対話を終結させる自己決定

 援助者が自己決定を目的として捉える考え方と、すなわち、本人が決めたことには何も手出しができないと思いこむ考え方と、パターナリズムとは、どちらも、本人と援助者との間に取り結ばれているはずの関係性がみえないという点では同一である。別の表現を使うと、両者の間に対話がないという点で同一であるといってもよい。パターナリズムは、本人の意見に耳を傾けないし、自己決定を目的とすることは、本人の意見を絶対的なものとして、逆にそれ以上手出ししないことである。よく引かれる例でいうと、死にたいと口にする人に対して、パターナリズムは、ただ一方的にダメだと説教したり、縛り付けたり、薬でもうろうとさせたりすることであり、もう一方の目的としての自己決定では、あなたがそう決めたのなら、あなたの決定を尊重しましょうということになる。

 もちろんこれは、極端な例示だが、両者に欠けているのは、本人と自分との間に対話を成立させようとする意志であって、パターナリズムは説教や実力行使によって対話を抑え込み、目的としての自己決定は全面的に受け入れることによって結果的には対話を回避している。自己決定を目的としてしまえば、決定がなされた時点で目的は達成されたことになり、それ以上対話は成り立たせる必要がなくなる。自己決定を目的化することは、自己決定によって対話を終結させることなのである。

 3.独り言と対話

 本人が自分のことについて、自分の選択としてAを希望し、援助者が(専門的な)その人の立場からBという選択肢を提示する場合、パターナリズムはBによってAを封じ込めること、自己決定を目的とすることは、Aを全面的に受け入れてBを取り下げることと定式化できる。いずれも本人の選択Aと援助者の提案Bとが別々に切り離されて、AかさもなくばBかのどちらかしかないようなせまい空間を形成している。パターナリズムとは、援助者の独り言であり、自己決定の目的化とは、本人の独り言であるといえる。

 これに対して、対話というのは、本人のAと援助者のBとをお互いに提示しあいながら、お互いが相手の視点や選択を交換して吟味しながら進展するプロセスである。私たちは、一方的に話したり、一方的に聞かされたりするのではなく、語りながらも聞き手の視点に立って、語っていることを理解してもらおうと思い、聞きながらも語り手の視点に立って、語られていることを理解しようとする。この語り手聞き手の視点を相互に交換していく過程が対話である。

 逆に言えば、本人と援助者との選択が一致すれば、それ以後対話は必要なくなってしまうことになる。すなわち、対話は意見の食い違いからこそ起きるのである。その食い違いが最終的に一致するかどうかは、結果の問題であって、対話自体は、食い違う中からお互いの意見や考え方を交換し合う過程にこそ存在する。問題なのは、意見が違うときに、対話を始めようという意志を保持し続けることができるかどうかにかかっている。

 4.対話の出発点としての自己決定

 実際の場面で、援助者が本人の自己決定を尊重するためには、まず、本人の自己決定を援助者が引き受けてみることが必要になる。すなわち、意見や考え方の食い違いが明らかになったとき、まず、援助者が相手のすなわち本人の意見や考え方を自分で引き受けてみて、その上で、納得できれば自分の意見や考えを相手に合わせ、それを代弁する役割を援助の一つとしてとることになるし、納得できなければ、ここまではわかるが、でもこう思うとか、こうではないかとかと投げかけて対話を開始することが必要となる。

 先の例でいえば、死にたいという人に対して、そういうことを口にするに至ったその人の状況や考え方について、微細な動きや表情やあるいは言葉を手がかりにしながら、精一杯想像力を働かせ、共感しようと努力し、自分なりに理解しようとするのが先決であり、その上で、ここまではわかる、でも、私はやはりあなたに死んでほしくないと思うということを何とか伝えようとするのが常である。それは、テクニックの問題でもなければ、パターナリズムや自己決定といった原理原則の問題でもない。問われているのは関係性の深まりなのである。

 自己決定というのは、決して、切り離された自己、関係性をもたない自己が全く勝手に行うものではなく、周囲の人々との関係性の中でなされるものであり、関係性のあり方を変えていくのが対話なのだといえる。そして、対話を開始し、継続していくためには、プロである援助者がまず相手の視点を最大限に取り入れてみるべきで、本人に援助者の視点を取り込むよう要請するのはパターナリズムに過ぎない。また、援助者のみならず、本人もまた対話を断念したり回避しようとしたりすることがある。その場合には、そこまで追い込んだ事情を踏まえつつ、再び対話へと本人を向けていくのも援助者の大きな役割といえる。

 繰り返すが、援助は、本人の利益を最大限実現することが目的であり、本人の利益は本人が最も知っているというのが自己決定の考え方であった。だから、援助の出発点には、本人の意向を確認するという手続きが必要となる。だが、そこで終わってしまったら、自己決定がなされたことをもってよしとすることに過ぎず、自己決定が目的にされてしまっている。援助者は、本人による自己決定をいったんは引き受けながら、しかし、その決定と援助者自身の考え方とを吟味して、両者が食い違っているときには対話を開始する以外には方策がない。目的として自己決定を位置づければ、決定がなされた時点で目的は果たされたことになり、それ以上すべきことはなくなってしまう。本人の利益実現というより大きな目的の手段として自己決定を位置づけてこそ、自己決定は、対話の出発点となりうるのである。

5.閉じられた自己決定

 決定不能の問題は、自己決定が本人の利益実現の手段にすぎないことを示していた。また、決定内容の問題は、自己決定が終着点ではなくて、対話を始めるための出発点であることを示していた。では、残された決定放棄の問題は何を示しているのであろうか。

 1.決定放棄の問題再考

 たとえば、タクシーに乗ると、行き先は告げるが、細かい道順までいう人は少ない。言い始めれば、極端にいうと、アクセルを踏め、ブレーキをかけろまで一々指示しなければならない。なぜそんなことをいわないのかといえば、運転手を信頼しているからであって、そういう意味で、「お任せします」は信頼感の表明であるともいえる。

 実際、すべてにわたっていちいち決定していくのは決して楽ではない。自分では決定しないで、信頼できる人にゆだねることもまた、その人にとっては決定になる。これは、インフォームド・コンセントの重要性を否定しているのではない。情報提供を受けた上で、情報内容に基づいて自分で決めるかどうかということ以上に、情報を提供してくれる人が、自分のことを本当に親身になって考えてくれていると思えれば、人はゆだねることがあるということを示しているに過ぎない。問題は、その人が親身になって自分のことを考えてくれているかどうか、そこに信頼関係が成立するかどうかなのである。

 決定放棄の問題、すなわち、決定をしないという決定や決定をまかせるという決定が示しているのは、決定というものが全く白紙の状態で行われるわけではないこと、あるいは、全く色づいていない中立的な情報だけを前にして行われるわけではないということ、すなわち、「真空で行われる決定はない」ということであり、先程の対話と同じく、情報を提供してくれる、あるいは、決定の場に立ち会ってくれる人との人間関係が決定に対して非常に大きな影響を与えているということなのである。

 だが、この決定放棄の問題が示しているのは、それだけではない。

 2.強制された自己決定

 決定放棄をよくないことであると捉えると、自己決定するようにと圧力をかけることになる。こうした事態は、「自主(自発)的であれ」という命令になっており、「自主(自発)性命令のパラドックス」と呼ばれている。自主的であろうとすることは、命令に従うことだが、命令に従うことは自主的なことではない。また、自主的でないようにしようとすることは、命令に背くことであって、自主的なことになる。要するに、自主的でないようにすると自主的になり、自主的にしようとすると自主的でないことになって、いずれにせよ一旦この命令が発動されると、論理的な矛盾に陥らざるを得ず、身動きがとれないことになる(自発性を「愛すること」で代表させると、「私を愛しなさい」という「愛情命令」になり、その奇妙さがより明白になる)。また、これは、強圧的な雰囲気の中で親から「あなたの好きなようにしなさい」と命令され続けた子どもが、結局は、親や周囲の顔色をうかがいながらしか何も決められなくなると言われていることにも似ている。

 そして、自己決定が尊重されるあまり、わたしたちは、自己決定することを、実は、他者にも強制し、のみならず、自分自身に対しても強制しているのではないかと疑ってかかる必要がある。パターナリズムは、他者による決定の押しつけであった。しかし、決定放棄が問題にされるとすれば、自己決定も押しつけられているに過ぎないのではないかと疑ってもよい。この疑いは、決定内容の問題と組み合わせられることによって、自己決定をめぐる根本的な問題状況を浮かび上がらせる。

 3.閉じられた自己決定

 決定内容の問題が示しているのは、私たちは、決して完全な自由空間で決定することが許されているわけではないということであった。すなわち、私たちは、一定の許容範囲の中でのみ決定することが許されているに過ぎないのである。また、決定放棄が問題にされるのは、他人に決定をゆだねるのではなく、あくまでも自分で決めなければいけないということであった。

 ということは、私たちは、ある一定の許容範囲の中で、自主的に決定するよう強制されていることになる。別の言い方をすれば、私たちは、一定の範囲の中で、決定を強制され、かつ、それをあたかも自主的に行っているかのようにと錯覚させられているのではないかともいえる。自己決定という名の下で、自分が自由に決定しているように思わされているが、実は、あらかじめ他者によって決められたごく狭い枠の中で、非常に限定された自由をあたかも無制限の自由であるかのように錯覚させられているのではないかと疑ってもよいのである。そこにあるのは、閉じられた自己決定、あるいは、囲い込まれた自己決定なのだということができる。

 たとえば、昼食がそばかうどんか選べるだけで自己決定が尊重されているなどというのがおかしいということは誰でもわかる。しかし、似たような状況はいくらでもあり、私たちが福祉の現場で議論している自己決定は、このレベルのものが少なくない。その際には、自己決定がなされたからよしとするといった議論にはほとんどの場合意味がない。結局は、決められた時間に決められた数少ない選択肢の中から、無理矢理、しかし、あたかも自主的であるかのように、自己決定させられているだけだともいえるからである。

 とはいえ、現代の社会では、自己決定という錯覚を巧妙に利用するサービスが横行している。たとえば、ホテルの朝食バイキングやファミリーレストランのサラダバーなどは、「自分で自分の好きなものを好きなだけ」を装い、このうち、私たちは「好きなものを好きなだけ」という観点から自己決定があたかも尊重されているかのように思っているが、企業側からすると、最初の「自分で」つまり「客が自分で働く」ということから人件費の削減による利益を上げているだけである。つまり、自己決定という錯覚の中で、自分が働かされていることに気付いていないだけともいえる。

 (なお、余談だが、援助交際について、「売る売らないは私が決める」という言い方で肯定論が語られることもある。しかし、同様に「買う買わないは周囲が決める」のであり、また、その際の「買い値は相場が決める」のであって、すべてが本人の自己決定のみに基づいて成立しているわけではない。先の肯定論には、関係性や社会性という視点、および、結局これもまた囲い込まれた自己決定に過ぎないという視点が抜け落ちていることになる。)

6.決定空間の変容に向けて

 最後にふれたように、おそらく自己決定をめぐる最大の問題状況とは、自己決定を取り巻く強制された閉鎖空間であるといえる。だが、この閉鎖空間は、自己決定がなされたときに初めて姿を現すものであり、また同時に、やはり自己決定こそがこの空間の変容を促すものなのである。

 援助者は自己決定を目的としてはならないと繰り返し述べてきた。援助者が採用すると対話が成り立たないからである。しかし、目的としての自己決定を全く違う角度から捉えることもできる。自己決定を最終目的とするということは、決定内容に関わらず、自己が決定することに最高の価値をおく考え方で、自己が決定するのであれば、失敗したり危険な目にあってもよいというものであった。人には、「失敗する権利」や「危険をあえておかす尊厳」もあるのであって、自分で決めることこそが尊いというわけである。言い換えると、これは自己決定=自己責任という考え方でもある。援助者が自己決定を目的としてはならないのは、責任を援助者が引き受けられないからなのであった。

 だが、本人が失敗しても自分で責任をとるから自分で選択させろというなら、それは正当であり、かつ、それこそその人の権利でもある。ここでは、権利に伴う責任が明確になっている。援助者が言い出すと無責任と批判されても仕方ないが、本人が、さまざまなリスクやコストをも考え抜いた末に決定するのであれば、それは、自分の選択に対する責任を自分でとりたいという意思表示でもあり、権利としての自己決定であるといえる。

 そして、本人が権利としての自己決定を行使することによって、逆説的であるが、はじめて、本人を囲い込んでいる自己決定の閉鎖空間が姿を現す。この社会では、誰も完全に自由な決定空間をもっているわけではなく、何らかの閉ざされた空間の中でのみ自己決定が許されている。とはいえ、自己決定が許容される空間が不当に狭く設定されている人たちがいる。たとえば、ある人々は、なぜか病院や施設で暮らさなければならない。またある人々は、なぜか普通の学校には通わせてもらえない。

 不当に狭い空間に囲い込まれた人々が権利として自己決定することの意義は、自己決定が許されている空間の社会的な落差を周囲の人々に意識させることである。もちろん、たしかに「わがまま」の一言で片づけられることも少なくないが、しかし、言わなければ誰も気付かないし、言い続けていれば、聞く耳を持つ人も出てくる、すなわち、対話が始まる。権利として、どんなリスクを背負っても、本人が自己決定を目的化することによって、周囲の人々と対話を始めることができる。援助者による自己決定の目的化は、対話の回避に過ぎないが、本人による自己決定の目的化は、決定空間の変容に向けた対話の出発点なのである。

 たしかに一人一人が意思を表明する声は小さい。誰にも聞き取られることなく消えていった声の多さは想像を絶するものかもしれない。しかし、だからといってあきらめるわけにはいかない。同じ境遇や体験を経た人をはじめとして、どんな小さな声でも聞き取ろうとしてくれる人は必ずいるという希望を捨ててしまったら、不当な決定空間は、姿を現すこともなく私たちを締め付けるばかりである。かすかな希望の先から始まる対話は、小さな声の増幅器ともなりうる。本人が自己決定をする。援助者がその決定を尊重しながら対話を繰り返す。そうした過程に人々が少しずつ参加していくことで、不当に狭い閉鎖空間も変容していくのではないだろうか。

 最後にふれたように、おそらく自己決定をめぐる最大の問題状況とは、自己決定を取り巻く強制された閉鎖空間であるといえる。だが、この閉鎖空間は、自己決定がなされたときに初めて姿を現すものであり、また同時に、やはり自己決定こそがこの空間の変容を促すものなのである。

 援助者は自己決定を目的としてはならないと繰り返し述べてきた。援助者が採用すると対話が成り立たないからである。しかし、目的としての自己決定を全く違う角度から捉えることもできる。自己決定を最終目的とするということは、決定内容に関わらず、自己が決定することに最高の価値をおく考え方で、自己が決定するのであれば、失敗したり危険な目にあってもよいというものであった。人には、「失敗する権利」や「危険をあえておかす尊厳」もあるのであって、自分で決めることこそが尊いというわけである。言い換えると、これは自己決定=自己責任という考え方でもある。援助者が自己決定を目的としてはならないのは、責任を援助者が引き受けられないからなのであった。

 だが、本人が失敗しても自分で責任をとるから自分で選択させろというなら、それは正当であり、かつ、それこそその人の権利でもある。ここでは、権利に伴う責任が明確になっている。援助者が言い出すと無責任と批判されても仕方ないが、本人が、さまざまなリスクやコストをも考え抜いた末に決定するのであれば、それは、自分の選択に対する責任を自分でとりたいという意思表示でもあり、権利としての自己決定であるといえる。

 そして、本人が権利としての自己決定を行使することによって、逆説的であるが、はじめて、本人を囲い込んでいる自己決定の閉鎖空間が姿を現す。この社会では、誰も完全に自由な決定空間をもっているわけではなく、何らかの閉ざされた空間の中でのみ自己決定が許されている。とはいえ、自己決定が許容される空間が不当に狭く設定されている人たちがいる。たとえば、ある人々は、なぜか病院や施設で暮らさなければならない。またある人々は、なぜか普通の学校には通わせてもらえない。

 不当に狭い空間に囲い込まれた人々が権利として自己決定することの意義は、自己決定が許されている空間の社会的な落差を周囲の人々に意識させることである。もちろん、たしかに「わがまま」の一言で片づけられることも少なくないが、しかし、言わなければ誰も気付かないし、言い続けていれば、聞く耳を持つ人も出てくる、すなわち、対話が始まる。権利として、どんなリスクを背負っても、本人が自己決定を目的化することによって、周囲の人々と対話を始めることができる。援助者による自己決定の目的化は、対話の回避に過ぎないが、本人による自己決定の目的化は、決定空間の変容に向けた対話の出発点なのである。

 たしかに一人一人が意思を表明する声は小さい。誰にも聞き取られることなく消えていった声の多さは想像を絶するものかもしれない。しかし、だからといってあきらめるわけにはいかない。同じ境遇や体験を経た人をはじめとして、どんな小さな声でも聞き取ろうとしてくれる人は必ずいるという希望を捨ててしまったら、不当な決定空間は、姿を現すこともなく私たちを締め付けるばかりである。かすかな希望の先から始まる対話は、小さな声の増幅器ともなりうる。本人が自己決定をする。援助者がその決定を尊重しながら対話を繰り返す。そうした過程に人々が少しずつ参加していくことで、不当に狭い閉鎖空間も変容していくのではないだろうか。

7.それでも残される問題状況

 ここまでの議論から言えるのは、いかなる意味でも、自己決定は出発点あるいは手段に過ぎないということである。結局、自己決定とは、強制された閉鎖空間を対話によって変容させていくための出発点であり、手段なのである。そして、誰かが権利として自己決定を行い、それを聞き取る耳がなければ、閉鎖空間は密かに増殖し続けることになる。

 とはいえ、自己決定を出発点と位置づけた上でもなお、残される問題状況がある。

 自己決定とは、本人にとって、自己の意志や希望を実現するための出発点である。そして、意志や希望は、現実を自分の思い通りに動かしたいという願いでもある。すなわち、それは、自分の思いのままに現実をコントロールしたいという欲望のあらわれともいえる。もちろん、現代社会は、人々のこうした欲望を少しずつ満たすことでたしかに「発展」を遂げてきたし、そうした傾向は今後も決して衰えることはない。

 だが、そうした欲望を際限もなく増長させることだけがいいことなのかどうかは、全く別の問題である。たとえば、古来より「生老病死」などともいわれるが、どうすることもできないことを受け入れる謙虚さみたいなものは、もう不要なのだろうかという疑問は残る。臓器移植や選択的人工妊娠中絶に関する議論を聞いていると、運命に身を任せる、あるいは、ありのままを受け入れるといった考え方は、もう必要ないのだろうかとも思う。もちろん、忍従隷属の思想を勧めているわけでは決してない。にもかかわらず、大いなる何かを受け入れるということ、自分の欲望に一定の歯止めをかけるなどといったことは、もう考えなくてもいいのだろうかとも思う。

 あるいは逆に、昨今の「癒しブーム」を見ていると、何かに「なる」ことに疲れて、今のままで「ある」ことを肯定したいという欲望のようなものも感じられる。当事者運動などとは全く別のレベルで、人々は、自己決定に疲れているような気さえする。だから、すべてを委ねてしまえるものとしてのカルト教団が流行るのかとも思う。主体性を放棄してしまいたいという欲望もまた人々の中にあるのかもしれない。

 さらにまた、自己決定とは、決定する主体があって初めて意味を持つが、昨今の介護保険制度などを見ていると、主体を変数の束としてしかみない思考方法が主流になりつつあることを強く感じる。本人がどうしたいと思っているのかということ以前に、何がどの程度できる人なのかということしか見ようとしない管理の思想が臆面もなく顔をのぞかせている。すなわち、主体性がニーズやそれに基づくリスクに変換され、社会福祉が露骨にリスク管理を目指し始めたということなのかとも思う。

 結局、一方には、際限なく己の欲望を満たそうとする貪欲な主体と、あくまでも貪欲さを煽動しながら自らも「発展」していこうとする社会があり、にもかかわらず、もう一方には、貪欲であり続けることに倦み疲れた主体と、そうしたひ弱な主体を吸収することで己の欲望を満たそうとする強欲な主体があって、また他方には、主体性など一々計算していられないとするリスク管理の欲望と、自らすすんで管理に身を委ねることで安寧をむさぼろうとする子羊的な主体がある。

 おそらく、自己決定をめぐる問題状況を整理することとは、本来、こうした多様な欲望や主体のあり方そのものを丹念にえぐり出していく作業であったのかもしれない。というのも、自己決定それ自体は、極言すれば、空虚な形式に過ぎず、それを問うことは、逆に、本人の利益とは何か、すなわち、人間一人一人が何を求めているのかというより根本的な問いを封印することに他ならないからである。ひとたび個々の欲望の内実に一歩でも踏み込めば、そこはいまだに目もくらむばかりの混沌であるといってよい。ただし、自己決定がそうした混沌に分け入る手がかりの一つであることは間違いないと思われる。