一方には、誰も思い通りに助けることができないというニヒルな現実があり、それに対して、空也や法然は、念仏を口にするだけで、どんな極悪人であっても救われるという「際限のない赦し」を示した。人々は、ニヒルさと向き合っていたからこそ、際限のない赦しに賭けるしかなかった。

 だが、すべての人にとって<善きこと>が得られるという宣言は、にわかには信じがたいものでもあった。<善きこと>は、皆の手には入らないという稀少性ゆえに至高の価値を保っているともいえるからである。そこで、二つの戦略がとられた。


■世俗者の疑念

 一つは、法然が担ったもので、すなわち、彼自身が、高邁な人格として<善きこと>の直近に立ち、理屈ではなく、彼が言うのだから間違いはないと人々に信じさせる戦略である。法然は、仏に最も近い「人を超えた人」として、京の東山に立ち現れたのであった。

 ただし、こうした法然自身への限りない尊敬に基づく「信」は、法然と彼の言葉を聞く者との間に、圧倒的な格差が設定されて初めて成り立つものである。ところが、そこに例外的な人物が現れた。九条兼実(一一四九-一二〇七)である。最上流の名門に生まれ、太政大臣や関白にもなった兼実は、長男が若くして急死したことを機に、専修念仏を説いてすでに風評の高かった法然を自宅に招き、その人柄に感銘を受けて、後年関白を退いてからは、法然を戒師として出家した。

 彼は、市井の人々に比べれば、法然に対して近い存在であり、もちろん深く帰依していたにせよ、自らの意により繰り返し法然を自邸に招くこともできた。だからこそ、彼は法然と一対一で向き合いながら、その説くことに疑念を持ち得た。つまり、たしかに目の前にいる高潔な人格は救われるであろうが、肉食妻帯のみならず、飲酒に耽り、権勢争いを繰り返す自分などは、救われないのではないかという、素朴なしかし確固たる疑いである。

 この兼実を心底納得させるには、彼の求めに応じて、在家であっても往生することを示すというもう一つの戦略が必要とされた。とはいえ、法然が自ら破戒することは許されるはずもなかった。彼は、弘法のため、高みに居続けることを半ば義務づけられていたも同然だからである。そこで弟子の親鸞がその任を負うことになる。


■差し出された親鸞 

 親鸞(一一七三-一二六二)は、京都に生まれた。四歳のとき、従五位の下級貴族であった父親が亡くなり、八歳で母親を失う。九歳のとき、九条兼実の実弟慈円のもと、比叡山で出家した。親鸞の伝記は数が多く、伝えられる内容もさまざまであるが、以下では、吉本隆明氏が『最後の親鸞』において、「もっとも周到な親鸞伝説」と位置づけた『親鸞聖人正明伝』(佐々木正『親鸞始記』所収、以下『正明伝』)を手がかりとする。

 親鸞にまつわるエピソードの中でも、最も広く知られているのが、「女犯偈」の夢告である。

 一二〇一年、親鸞二九歳の正月、聖徳太子ゆかりの六角堂にて百日の参籠(夢でのお告げを得るための泊まること)を始め、九五日目にあたる四月五日、救世観音菩薩から「女犯偈」の夢告を受けた。その意は、「行者(親鸞)が宿報によって、女犯することがあるならば、私(観音)が玉女の身となって抱かれましょう。その後もずっと付き従ってお世話をし、臨終には引導して極楽に生まれさせましょう」というものであった。

 『正明伝』によれば、親鸞は、この夢告に先立つこと三週間ほど前に人を介して法然と初対面する機会を得、他力浄土門の教えを聞いて、幼児が母親に会ったときのように泣き続け、ただちにその場で法然の弟子になったとされている。したがって、偈を授かったときには、法然の教団から六角堂に通っていた。また、夢の中で観音は、女犯偈について、「これは私の誓願である。すべての人に説き聞かせなさい」とも告げていたのであった。

 そして、半年後の一〇月上旬、兼実が法然のもとを訪れ、持戒できない在家の者の往生について詰問した。法然は、すぐさま親鸞を呼び、兼実の求めに応じて彼の娘と結婚するようにと迫った。

 親鸞は、「比叡山で長年修行を積んできたのに、数百人もの弟子の中で、私一人が撰ばれて、仏天も私を見捨てたのでしょうか」と黒衣の袖を絞るほどに泣いたと『正明伝』は伝える。だが、法然に女犯偈の夢告について指摘され、兄弟子たちからも説得されて、兼実の息女で一八歳になる玉日姫と結婚することになった。

 偈にある「宿報」とは、本人の意志を超えた前世からの報いを指す。したがって、親鸞の結婚は、彼の意志や、ましてや欲情などによるものではないと予告されていたことになる。あるいはまた、親鸞が参籠を始めた一二〇一年の正月とは、前回見たように、法然に恋い焦がれた式子が、しかし、相見叶うことなく一人静かに息絶えたときでもあった。法然が自ら封印した情愛を親鸞に託したとも考えられる(佐々木氏同書)。


■救済の論理

 どのような極悪人であっても、念仏を口にすれば極楽へ往生する。法然は、この命題に対して、あえて宗教的な高みに昇ることにより、説得力をもたせようとした。だが、世俗的な高みにいた兼実を納得させるには至らなかった。そのため、善悪にかかわらず<善きこと>が得られるという救済の論理は、親鸞がその生き様で根底より支えることになった。

 従来より一般的な常識として主流を占めていたのは、因果応報の論理であり、悪因悪果と善因善果によって、勧善懲悪が裏付けられてきた。それに対して、救済の論理は、必ずしも道徳的な善悪を根拠とはしない、次元を異にする宗教的な論理である。

 そのため、救済を口にする者たちは皆、世俗的な善悪にとらわれないよう、自らを道徳的には最劣位に位置づけて、その思想を展開させてきた。たとえば、最澄は、比叡山を開くにあたっての決意を宣揚した『願文』において、自らのことを「愚中の極愚、狂中の極狂、(略)底下の最澄」と呼び、あるいは、源信もまた、『往生要集』の冒頭にて、自らについて「予が如き頑魯の者」(かたくなで愚かな者)と述べている。

 そして、法然に至っては、四三歳にして比叡山を下り、浄土宗を新たに立てた頃すでに、自身について、一戒も守れず、心静める禅定もできず、煩悩を離れた智慧も得られないとして、「かなしきかな、かなしきかな」と嘆き(『絵伝』第六)、さらには、入寂二日前の絶筆となった『一枚起請文』においても、「学問のひとかけらも知らない愚かな身(一文不知ノ愚とんの身)」と自覚することの大切さを説いている。

 だが、いずれもその心に潜む闇の深さは、たしかにうかがい知れないとしても、彼らの行状には、一点の曇りもなく、持戒堅固の清僧であることを疑う者はいなかった。だからこそ逆に、因果応報の常識的道徳を決定的に突き崩し、絶対的な救済による宗教的世界を打ち立てるまでには至らなかったのである。そこを親鸞が突き抜けた。

 親鸞は、法然の意に応じて肉食妻帯の無戒を生き、非僧非俗の愚禿を自称しつつ、自分こそが地獄必定の極悪人と考えた。『教行信証』信巻で唐突に出会う「かなしきかな愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑して(戸惑って)」との有名な吐露は、末尾の「はづべしいたむべし」という嘆息とともに、親鸞の真情を忖度させるに充分である。

 とはいえ、救済の論理からいえば、もともと親鸞が実際にどのような悪をなしたかなどということは、直接的な問題とはならない。というのも、救済において、実際に何をなしたか、あるいは、なさなかったかといったことは、必ずしも問われないからである。ここでの「悪人」は、何らかの悪をなした人ではなく、自分が地獄に堕ちるしかないと思っている人、すなわち、自分で自分のことを救われないと思っている人を指している(今村仁司『親鸞と学的精神』)。

 繰り返すが、救済の論理は、善悪の道徳的基準の上に構築されているわけではない。親鸞自身もまた、「善悪のふたつ、総じてもて存知せざるなり」(『歎異抄』結文)と述べているが、というのも、「よき(善)」「あしさ(悪)」は「如来の御こころのおぼしめすほど」であって、そもそも人間が判断することではないからである。

 いずれにしても、善悪の基準が一旦解体されることによって、救済の論理が立ち現れる。宗教的な救済の可否とは、誰かが別の人に対して行う道徳的な判断ではなく、本人が自分をどのように捉えているのかということに根拠を置いているのであった。


■「善人なをもて」

 因果応報の世俗的道徳に従えば、もし悪人が救われるなら、善人はもちろんだということになる。だが、救済の論理によれば、必ずしも悪人が善人より劣位にあるわけではなく、両者を逆転させて、善人でさえも救われるのであれば、悪人はなおさらだという帰結を生み出すこともできる。

 こうした言い方は、『歎異抄』第三章を通じて知られたため、親鸞の言葉であるかのようにも広まっているが、親鸞の曾孫にあたる覚如による『口伝鈔』第一九条に明記されているとおり、もともとは、法然から口伝されたものである。また、多くの研究者が指摘するように、法然に一八年間随従し、その臨終に立ち会った源智の筆録に基づく『法然上人伝記』(通称『醍醐本』)にも、「善人なをもちて」の言葉が法然による口伝として残されている(梅原猛『法然の哀しみ』など)。

 さらに、この言葉は、あたかも逆説であるかのようにも受け取られかねないが、それは、道徳的な善悪の概念に基づいて解釈するからにすぎない。

 ここで言われている善人とは、道徳的な善をなした人ではなく、自分のことを悪人ではないと思っている人、すなわち、自分は善いことをしてきたのだから救われるに違いないと無邪気に思い込んでいる「自力作善の人」のことである。

 しかし、人は、いささかなりとも煩悩を滅すること叶わず、あるいは、動植物など他の生命を傷つけ奪うことなしには生きられないということも含めて、完璧な意味で、悪をなさざる人という存在を考えることはできない。

 実際、東国の地において、親鸞の言葉に耳を傾けていたのは、「うみかわに、あみをひき、つりをして、世をわたるものも、野やまに、ししをかり、とりをとりて、いのちをつぐともがらも、あきなひをもし、田畠をつくりてすぐるひと」(『歎異抄』第一三章)たちであって、戒を守って善人面などをして生きてはいけない「悪人」たちであった。

 そして、これを前提とすれば、善人とは、自分は何も悪を犯していないと思っている浅はかな人であり、逆に、悪人とは、自らの生が悪をなさずにはいられないものであることを深く内省する人ということになる。そんな浅薄な善人でさえ往生できるのなら、たしかに、深厚な悪人はなおのこととなる。ここでは、救われる資格がないという本人の嘆きこそが救済の契機となっているのである。

 思想的には、法然によって一切衆生救済の論理はほぼ尽くされていた。しかし、法然自身は、あくまでも出家・持戒の立場を離れることができなかった。したがって、親鸞の生き様は、肉食妻帯から逃れられない在家の人々、日常的に漁狩商農の生活で破戒無戒を生きざるを得ない人々に対して、実生活のレベルで救済の論理を得心させるという革新的な意義をもっていた。

 もちろん、巨人たちの限られた一面を示すにすぎないとはいえ、あえて対比させるならば、法然が「すべての」悪人たちを救おうとしたのに対して、親鸞は、極悪人たる「己一人」がどうすれば救われるのかという問いを引き受け、そして畢竟するに、衆生を救済しようという阿弥陀仏の誓願は、「ひとへに親鸞一人がためなりけり」(『歎異抄』結文)と断言するまでに問い抜いたのであった。

 すなわち、法然は、<善きこと>の直近に立ち、いわば内側から赦しの境域を際限なく拡張することに心血を注いだのであるが、親鸞は、逆に、あえて<善きこと>のかなたに身を置き、外側から世俗的な道徳を突き抜けた地点にまで赦しの射程を伸展させたのであった。


 とはいえ、ここでの救済の論理は、分別的操作に基づいて道徳的な「善/悪」の二項を宗教的な「浅/深」に転化させただけととれなくもない。そういう意味では、二項対立図式そのものを超えたとまでは言い切ることができず、さらに詰められるべき余地も残されている。

 ただし、たとえ二項対立を消滅させる究極の思想が現れたとしても、そこが豊饒な地になるとは、必ずしもいえないのであるが。