『援助者が臨床に踏みとどまるとき: 福祉の場での論理思考』(誠信書房 2015)の「はじめに」です。内容の概要を説明しています。


はじめに


■「援助」とは

 援助すること、すなわち、人を助けることとはどういうことでしょうか。

援助とは、日常的な言葉ですから、ここではまず、素朴なイメージを手がかりに考えてみます。

 たとえば、誰かが路上で転んだ場面に出くわしたとします。そのとき、まず、私たちは、とまどいながらも、何とかしなければならないと焦ります。

 そして、たとえば、あまり深刻なケガなどがないようであれば、一応声をかけてみたり、散らばったものを拾い集めたりするなどといったことが思い浮かびます。あるいは、痛みが強そうであれば、起きあがる際に手や肩を貸したり、ゆっくりできそうな場所に移したりといったことも考えられます。もちろん、出血がひどいときや意識を失っているような場合には、すぐさま救急車を手配します。

 いずれにしても、こうした素朴なイメージから考えてみると、第一に、援助というものは、目の前で生じている状況に対して、それをよくない状況として否定的にとらえることからはじまるのがわかります。

 その上で第二に、そうした誰かの困っている状況をより望ましい方向に変えていこうとします。


すなわち、援助とは、誰かが困っているときや、望ましくない状態におかれているときに、それをよりよい方向へ何とか変えようとすることなのです。したがって、通常、援助については、「何に」対して、「どのように」変えていけばよいのかが論じられることになります。

 ところが、現実には、望ましい方向へと変えていくための手立てがどうしてもみつからないような状況も少なくはありません。本書は、以下のように、あえてそうした状況を設定した上で、何ができるのだろうかといった問いを立ててみるものです。


■悲嘆のつぶやき

 「どうして、こんなことになってしまったのか・・・」といった、なげきとも、うめきともつかないようなつぶやきが、この世にはあります。

かけがえのない何かが突然失われたときなどに、こうしたつぶやきが口をつきます。

災害や病気、事故や事件など、想像することさえなかった現実の急変によって、あたり前にできていたことができなくなったり、いつもそばにいた人に二度と会えなくなったり、大切にしていたモノがなくなったりなどといったときです。

 このつぶやきには誰も答えてはくれません。というのも、このつぶやきは、回答のないことを確認する一つの手順にすぎないからです。

 それは、どうすることもできない自分の無力さをかみしめながら、何とか問いの形式を保つことで、その場にふみとどまることを可能にしています。

 というのも、問うことによって、あたかもどこかに正解があるかのような錯覚に、しかし、それはまだみつかっていないだけだといった幻想に逃げこむことができるからです。


 とはいえ、失われた何かがふたたびもどることは、ありません。

だとすれば、このつぶやきは、理不尽な現実を前にしたためいきであるともいえます。どうするべきであったのか、どうすればよかったのかといった正解などどこにもないことに、たとえあったとしても、もはや手遅れでしかないということに、気づいているがゆえに、つぶやく以外にはなすすべがないのです。

 このように、大切にしていた何かを失い、それが再びもどってくることはありえないという現実を前にして、無力さを思い知らされることがあります。

それがいつどこで私たちにおとずれるのかは、誰にもわかりません。


■悲嘆する人への態度

 では、援助をするべき立場にある人が、もし、このように力なくうなだれ悲嘆する人を目のあたりにしたとき、一体何ができるのでしょうか?

このとき、援助者に限らず、そもそも人がとることのできる態度は、大きくわけると二つあります。

 一つは、そこから立ち去ることです。すなわち、見捨てることです。自分がいたところで何の役にも立たないし、そもそも自分とは何の関係もないからと、背を向けてみてみぬふりをすることができます。もちろん、あざ笑ったりののしったりといったバリエーションもありますが、いずれにしても、その場にとどまることはありません。

 もう一つは、その人のかたわらにふみとどまることです。たとえ何もできなくても、失われた何かを取りもどすことは誰にもなしえないとしても、にもかかわらず、その人を見捨てることだけはするまいと決めることです。

 ただし、ふみとどまったからといって、何かができるわけではありません。かけるべき言葉もうかばず、なすべきこともわからないまま、あせりととまどいに心がしめつけられ、それでも、ただその場に居続けようとたたずみ、息をのむだけです。


 もちろん、援助者が立ち去るような態度をとることはゆるされません。しかし、ゆるされないということは、逆にいえば「できる」ということでもあります。

 実際、その場にとどまりながらも、気持ちとしては目をそらしてしまうことが、いかなる場合にもありえないといいきるのはむずかしいことです。

 ただし、そんなとき、その人を援助者と呼ぶことはできません。

 逆に、ここでの援助者とは、今すぐできる何かがみあたらなくても、悲嘆する人のかたわらにふみとどまろうと心に決めた人のことをいいます。


■「臨床」

 そして、悲しみをかかえこんだ人のそばに、援助者がふみとどまるとき、そのような場を本書では「臨床」と呼びます。

 すなわち、臨床とは、「助ける」とか「支える」といった言葉を使うことさえためらわれるような場で、何もできないにもかかわらず、しかし、援助者がうなだれている誰かのかたわらにふみとどまることをいいます。

 援助者もまた、立ち去ることができます。だからこそ、そこにふみとどまるとき、臨床が立ちあらわれます。ここにいう臨床とは、どこかに「ある」ものではなく、誰かが生み出すものであり、その人を援助者と呼びます。

 本書は、かけがえのない何かを失うなどの圧倒的な現実を前にして、悲しみにくれることしかできないような人のかたわらに、援助者がふみとどまるとき、そこではどのようなことが起きるのだろうかといった問いについて考えていくものです。

 ただし、大切な何かを失うことだけではなく、それも含めた「思いどおりにならない現実」を手がかりとして出発します。私たちは、喪失だけでなく、失敗や敗北、挫折などによっても深い悲しみにおそわれることがあるからです。


■本書の内容と構成

 本書は、大きく2部にわかれています。「第1部 原理論」では、現実に対する根本的なとらえ方として、現状にそのままOKを出して受け入れる「肯定原理」と、現状のままではNG(no good)としてさらなる成長や発展をうながす「否定原理」を取り上げます。

 また、「第2部 臨床論」では、圧倒的な現実にうちひしがれる人のかたわらに誰かがふみとどまるとき、そこには、肯定原理にもとづく「臨床」の生まれることが説明されています。


 各章の冒頭には、【前提】と【問い】がおかれ、それらに【考え方】が続き、【問い】に対してどのように考えていけばいいのかが示されています。その上で各章の末尾に【答え】がおかれています。

 各章では、【前提】を足がかりとして、【問い】に対する【答え】を理屈で追っていきます。理屈とは、特別な知識がなくても、考えていけばそのままたどれるものでもあります。そのため、サブタイトルに「論理思考」と入れました。

 ただし、第1章と第9章では、【考え方】の前に【答え】があります。というのも、そこでは、【前提】と【問い】から、ただちに【答え】を導き出すことができるからです。

 【問い】に対しては、何らの予備知識も必要ありませんので、たとえ一瞬でも立ち止まり【前提】をふまえた上で思いをめぐらせていただけると、【考え方】のポイントがよくみえると思います。

 また、一つの「補章」4つの<コラム>がおかれています。筋立てからは少しはずれますが、補足的な説明として、あるいは、具体的なイメージをもっていただける例として加えました。