天台本覚思想は、一切をありのまま肯定することによって、逆に、人間的な営みのすべてを無意味化し、世界の動きを止める。それは、思想というものを根底で突き動かしている欲望が直接発現した全称的一元論であり、だからこそ、人々は、そこに究極の哲理を見ると同時に、節度をわきまえない露骨さに頽廃的な匂いをも嗅ぎ取るのであった。

 では、この思想を見据えた上で、人はどのように生きることができるのであろうか。


■修証一等

 前回少しふれたように、天台本覚思想と四つに組んで自らの思想を形成していった一人が道元であった。彼は、決してこの思想を否定したわけではなく、逆に、仏性概念に対しては、天台本覚的ともいえる独自の解釈を施した。

 『正法眼蔵』に収められた「仏性」の巻の冒頭には、『大般涅槃経』の「一切衆生、悉有仏性」が引かれている。そして、道元は、この後半の句に対して、通例に従った「悉く仏性を有す」ではなく、「悉有(すべての存在)は仏性なり」という奇抜ともいえる読み方を提示した。

 というのも、「仏性を有す」と読めば、仏性なる何かが衆生とは別に存在するかのようにも解釈できるからである。道元は、そうした解釈を外道として退け、衆生のみならず草木国土や日月星辰を含む天地すべてが仏性そのものであるとの見解を示した。これは、もちろん、天台本覚思想の真髄そのものである。

 ということは、この見解に基づくとき、人間的な営為はやはり無意味になる。

 道元は、もちろんそのことを誰よりも深く知り抜いていた。にもかかわらず、彼が「悉有は仏性なり」と言い切れたのは、すべてを絶対的に肯定しながらも、世界が決して動きを止めることのない論理を手にしていたからである。

 この論理は、いく通りにも表現されているが、その一つとして「仏法には、修証これ一等なり」を挙げることができる。これは、道元が三二歳にして書き上げた「弁道話」に見られる言葉で、修証一等とは、修(修行)と証(悟り)が等しく一つのものであるということを意味している。

 これによって、悟りは、目指すべき目的ではなく、修行するプロセスそのものと位置づけられる。また、目的(悟り)と手段(修行)が一つのものとされることによって、修行は、自己目的的行為に変換された。

 目的外在的行為(悟るための修行)は、目的の実現(悟り)によって停止するが、自己目的的行為(修行のための修行)は、目的の実現がすなわち手段の実行であるため、実際は別として、論理上その動きが止まることはない。

 さらに道元は、数ある修行の中でも打坐(坐すること)のみが開悟への正しき道であるとして、「只管打坐」(ひたすら坐禅すること)を標榜した。彼にとっては、坐ることによって悟りに至るのではなく、ただ坐るために坐ることが重要なのであり、その上で、坐ることがそのまま悟りであるという独創的な論理に基づいて、天台本覚思想を丸ごと受け止め、かつ、動きを弛緩させることのない思想を構築したのであった。


■捨ててこそ

 道元が目的と手段との一致によって目的の達成を無限に延期したのに対し、当初から目的そのものを無限の遠方におくという戦略を採用したのが法然であった。

 天台本覚思想は、現実世界をそのまま仏の現れとする一元論を打ち立てたが、法然は、一方で、この現世を煩悩にまみれた厭離すべき穢土と捉え、もう一方で、人々が欣求すべき極楽浄土を設定するという二元論を展開し、両者を架橋する救済の手段に口称念仏を位置づけて、穢土から浄土へという滔々たる流れを生み出した。

 しかし、こうした二元論的戦略は、これまで見てきたように、信/不信を不二とする思想に呑み込まれてしまう。

 そのため、不二の思想を突きつけられた一遍は、託宣に含まれていた「その札を配るべし」との指令を引き受け、以後、死に至る一六年間にわたって、全国を歩き札を配り続けた。『一遍聖絵』(以下『聖絵』)第一二によると、その相手は、約二五万人に及ぶ。当時の人口は、五~六〇〇万と推定されている(『一遍上人全集』補注)。

 ところでまた、一遍が熊野で託宣を受けたとき、彼は一人だったわけではなく、妻の一人である超一と娘の超二、さらには、お供の念仏房といった三人の女性を伴っていた。ただし、その理由について、『聖絵』第二は語ることを避けている。

 だが一遍は、託宣を受けた直後、超一らを故郷へと帰してしまう。彼女らに持たせた手紙には、「今はおもふやうありて同行等をもはなちすてつ」と書かれていた(『聖絵』第三)。「放ち捨てつ」とは、かなり強烈な意志を表す言葉であるが、一遍は、不二の思想を生き抜く上で、札を配り続けることだけでなく、捨てることをも根本規範に据え、「捨聖」とも呼ばれるようになる。

 さらには、ある僧都に念仏の極意を問われた際に、空也上人にならって「捨ててこそ」と答え、その上で、念仏については、「地獄をおそるる心をもすて、極楽を願う心をもすて」て申すことが阿弥陀仏の本願にかなうものであると説いた(『消息法語』)。

 ということは、一遍もまた、念仏を極楽往生のための手段としてではなく、念仏のための念仏といった自己目的的行為として捉えていたことになる。実際、彼は「念々の称名は、念仏が念仏を申なり」とも断言している(『播州法語集』)。


■アディクション

 横道にそれるが、自己目的的行為は、アディクション(嗜癖)という形態をとることもある。

 たとえば、飲酒において、酔うために飲むといった目的外在的な段階では、目的(酩酊)が実現されれば、手段(飲酒)は不要となる。しかし、アルコール依存症は、飲酒に対するコントロールが喪失し、飲むために飲む状態に陥ったことを意味する。あるいは、美しさを追求していたはずのダイエットも、やせるためにやせようとすれば、拒食症とも呼ばれる。

 このように人は、自己目的的行為に耽溺することもできるのだが、あらゆる生は、そもそも自己目的的であった。

 そして、自己目的的行為に対しては、その目的や意味というものを外部から見出すことができない。というのも、自己目的性は、同語反復的に循環しており、外部に対して閉じているからである。

 ところが、だからといって、内部において、あらかじめ何らかの意味が与えられているわけでもない。アルコール依存症者が何のために飲み続けるのかは、第三者はもちろんのこと、本人にも理解できない。誰しも自らの生に潜む虚しさに気付きながら、ただ目をそむけることに長けていくしかないのも同じ事情による。

 マルクスは、一方で「資本としての貨幣の流通は、自己目的である」(『資本論』第一巻第四章、向坂逸郎訳)と述べていたが、もう一方では、周知のように、資本をG(貨幣)-W(商品)-'G(G+ΔG)と定式化し、剰余価値(ΔG)を生み出して自己増殖する運動体としても規定していた。

 すなわち、貨幣は、もともと流通のために流通するものでもあったのだが、資本制は、そうした自己目的性に剰余価値の創出を埋め込み、流通を貨幣が自己増殖するための無限運動へと変異させた。

 それによって、資本制の下に生きる人々は、貨幣を増殖させることが至上の目的であるかのように、さらには、それを自分自身に適用して「成長」や「自己実現」があたかも生きる意味であるかのように思いなすこともできるようになった。マルクスの若かりし頃とは異なり、今や宗教ではなく資本制こそが「阿片」として、人々の抱える底なしの空虚さに対する鎮痛機能を果たしている。


■BのためのBがA

 閑話休題、道元は、坐禅のための坐禅を只管打坐として提唱した。これは自己目的的行為であるから、何のために坐るのかといった意味は不在である。そのため、彼は、同時に修証一等の論理によって、意味なき坐禅がそのまま悟りという意味をもつと主張し、そうした境地にひたることを「自受用三昧」とも呼んだ(「弁道話」)。

 同じく一遍もまた、念仏を念仏のためのものと捉え、同時に「決定といふは名号なり」(『播州法語集』)と述べて、往生は名号を称える念仏によって決まると断じた。すなわち、念仏のための念仏がそのまま往生決定であると考えた。

 二人の思考回路は共通している。

 彼らは、まず最終目標である<善きこと>としてのA(悟り、往生)を設定する。そのとき、Aに至るための手段としてB(坐禅、念仏)を選択する。ところが、Aはすでに成就していると宣告される(天台本覚思想、不二の思想)。したがって、AのためのB(悟るための坐禅、往生するための念仏)は無効となる。そこで、あらためてBのためのBという自己目的的行為(只管打坐、念仏が念仏を申す)を打ち出す。そして、このBのためのBがそのままAである(修証一等、名号による決定)と説く。

 簡略化しすぎのきらいはあるが、このように二人は、世界の動きを止める一元論を前にして、本来意味もなく動き続けるだけの自己目的的行為がありのままで<善きこと>であると意味づけた。

 それに対して、資本制は、平面的な循環としての自己目的性(G→G)を立体的な螺旋としての自己増殖(G→'G)に変換し、ありのままではなく、増殖(+ΔG)し続けることが<善きこと>であるとした。そのため、現代社会は、表面上は別としても、その根底では、ありのままに対する否定的なメッセージを堆積させ、自ら疲弊している。


■迷情ここにつきぬべし

 一遍は、遊行する上で「捨ててこそ」を原則として立てた。この原則は、自己言及させると、捨てること自体をも捨てることへと至る。もちろん一遍も、そうした分別を超えた境涯を体得してはいた(『聖絵』第五)。

 だが、捨てることも捨てれば、また世界は動きを止める。そのため、静謐な境地に鎮座してしまうことを避けようとするならば、捨て続けるために、あえて捨てることのできない何かと共に生きるという逆説的な生を選択するしかない。そして、一遍は、超一と共に歩くことを受け入れた。

 先にもふれたように、熊野で託宣を得た後、彼は、超一ら三名を放ち捨てた。一遍三六歳の夏であった。その後、彼は、一人で九州を遊行し、後に時宗二祖となる真教(他阿弥陀仏)以下何名かの同行者を得る。各地を廻る内に、一遍に付き従う人々も次第に増え、五年後には、信濃国佐久郡にて踊り念仏が始まる。

 栗田勇氏の『一遍上人』によると、『聖絵』第四に描かれた場面から、踊り念仏を始めたのは超一であると推察できる。彼女は、いつしか一遍らに再び合流していたのであった。さらに五年後、上洛を目指すも、一行は、近江と京との境にておよそ一年間とどめられる。そして、『時衆過去帳』には、この京入りを待つ間に超一が往生したという記載が残されているとのことである。とすれば、少なくとも五年以上、超一は、一遍に同行していたことになる。

 入洛は、超一の死から半年後に果たされる。一遍一行は、京にて貴賤を問わず熱烈な歓迎を受け、一ヶ月に及ぶ布教の後、西の郊外である桂に移る。そこで一遍は病に臥す。四六歳になっていた。

 そのときの言葉が残されている。曰く「それ生死本源の形は男女和合の一念(男女が互いを求める思い)、流浪三界の相は愛染妄境の迷情(愛欲にとらわれて迷う心)なり。男女かたちやぶれ、妄境をのづから滅しなば、生死本無にして迷情ここにつきぬべし(迷いの心もここに尽きるであろう)」(『聖絵』第七)。

 京での熱狂からいって、一遍は、人生の絶頂期にあった。人々がこぞって彼を崇めた。しかし、この言葉の背後からは嘆息しか聞こえない。これは、超一を失った今、彼女への「迷情」までもが消えようとしていることへの哀惜を吐露したものといえようか。

 いずれにせよ、一遍は、超一を放ち捨て切ることなく、逆に、一人残された。そんな彼には、もとより己が命を惜しむ気持ちなどあるはずもなかった。死の直前には、わずかな経典や筆録も焼き捨てて無一物となり、最後には、自身を「野にすててけだものにほどこすべし」(『聖絵』第一二)と、屍までも捨てることを望んだ。享年五一。


 さて、人は、このように捨て果てた先において、何を「耳」にするのであろうか。