ドストエフスキーによれば、すべてが許されるとき、人は、生に意味を見出すことができないまま、自身を破滅に追いやってしまう。それに対し、ニーチェは、無限に繰り返すのみで何も許されてはいない「今」を肯定し愛するとき、人は救われると説いた。その最たるイメージは、無邪気に遊ぶ子どもであった。

 ただし、子ども「になる」ための道筋が示されていたわけではなかった。子どもとは、そもそも「である」ものでしかないともいえる。だとすれば、救済は、はじめから「人は子どもである」と言い切ってしまう地点にしか存在しないことになる。

 だが、そのとき世界は、すべての動きを止めてしまうのではないか。そうした疑念を十代の若さで表明したとされているのが道元であった。

 本連載の初回にふれたことであるが、道元は、一四歳で比叡山に入るものの、わずか四年ほどで下山する。その理由について、後年編集された『建撕記』などによると、道元がある疑問をもち、比叡山の学匠たちに問うて回ったが、誰も答えることができなかったからだとされている。

 その疑念の主旨は、「衆生にはそもそも仏性が備わっているというが、では、なぜ諸仏は、あらためて悟りをえようとして修行をするのか」というものであった。すなわち、すでに仏「である」のなら、仏「になる」ための努力は、なぜ行われなければならないのかと問うたのであった。


■「になる」可能性

 紀元前五世紀頃誕生した仏教において、紀元前後には、出家者中心から在家者中心へと改革を進める運動が起き、大乗仏教が生まれた。その根本的な主張は、在家者を含む誰であってもブッダ(目覚めた人=仏)になることができるというものであった。そのためには、誰もが本質において仏と等しいという前提が立てられなければならない。

 思想的には、衆生と仏に限らず、一切が本質において等しいと説かれた。しかも、それ自体の本質なるものがないという「あり方」(空)において等しいとされた。なぜなら、すべては、他なる無数の原因や条件によって生じ、滅し、変化するという「あり方」(縁起)で成り立っており、それ自体で独立した固定的な実体を欠いているという「あり方」(無自性)をしているからである(中村元『空の論理』)。

 すなわち、他なるものに依存し、それ自身の変わらぬ本質をもたないという存在様式において、衆生や仏を含む一切は等しいとされたのであった。

 とはいえ、素朴に「あなたは仏である」などと言われて得心できる人はいない。そこで、インドでは、当初、誰もが仏(如来)を宿している、もしくは、衆生は如来の容れ物であるという意味で「如来蔵」という考えが打ち出され(『如来蔵経』高崎直道訳)、その後中国に渡ってからは、同じ意味を表す言葉として「仏性」が用いられるようになる。

 この仏性を正面から説いた経典の一つが『大般涅槃経』(田上太秀訳『ブッダ臨終の説法』)である。これは、前にもふれたように、親鸞が『教行信証』信巻で大きく取り上げた経典であるが、その中心テーマの一つが「一切衆生悉有仏性(あらゆる人々には、一人残らず仏性がある)」であった。

 ただし、ここでの仏性とは、仏「である」ことではなく、仏「になる」可能性のことである(同書解説)。すなわち、人は誰でも、仏「になる」ことができるのだが、とはいえ、人々は煩悩に覆われているため、たとえば、正しい見方や考え方を始めとする八つの実践方法(八正道)を修め、それによって煩悩を取り払うことが必要とされた(同書第四三章)。

 少なくともこの段階では、仏「になる」ために何らかの主体的な努力が求められており、道元の疑念はあてはまらない。だが、仏性思想はさらに進展を続ける。


■「になる」と「である」

 インドでは、古来より身心の制御にヨーガの技法が活用されてきた。大乗仏教の中にも、これらの技法を実践しながら瞑想を深めることによって精神を統一し、悟りへの到達をめざす瑜伽行派と呼ばれる人々がいた。

 唯識派とも呼ばれた彼らは、修行の実践を重んじながらも、教理的には、瞑想によって得られた体験知に基づいて無意識(アーラヤ識)の存在を認め、そこにこそ煩悩を含めた一切の現象を生み出す種子が蓄えられていると説き、精緻を極めた理論体系を構築していった。

 そしてさらには、アーラヤ識と如来蔵の思想とをいわば統合させ、「本覚」という概念を打ち出したのが、大乗仏教の最終テキストに位置する『大乗起信論』(宇井伯寿、高崎直道訳注、以下『起信論』)であった。

 その論ずるところは、容易ならざるものだが、出発点はアーラヤ識である。『起信論』は、アーラヤ識を「(真妄)和合識」と呼び、二つの相反する側面から成り立っているものと規定する。一つは、悟りの状態であって、如来蔵にも等しい「覚」の側面(真)であり、もう一つは、迷いの状態であって、あるべき姿から逸脱している「不覚」の側面(妄)である。

 『起信論』によれば、人は、およそ不覚の状態を生きているものであるが、その状態にあることを自覚し、覚の状態に戻ろうとする。その際、不覚を克服し、覚を目指して行われる修行の全行程を「始覚」と呼ぶ。そして、始覚が向かうべき覚の状態については、その本来性が強調されて「本覚」と呼ばれる。

 「つまり、『始覚』的修行の終局目標として見られた『覚』を特に『本覚』と呼ぶのであって、べつに『覚』とは違った『本覚』という特別なものがあるわけではない」(井筒俊彦『意識の形而上学』)ということになる。

 このように、『起信論』の本覚思想では、一方で、人は、もともと本来の姿として仏「である」とされながら、もう一方では、あらためて修行を積み重ねることによって仏「になる」べき存在でもあると捉えられていた。本覚は、始原状態としての「である」と同時に、「になる」べき究極状態をも意味するものとして、いわば表裏が一体となった力動的な概念として提示された。

 そして、始覚が本覚と合一したときが「悟り」ということになるのだが、『起信論』によれば、そうした境位に至るべく、すべての菩薩たちは、無限の長き(「三阿僧祇劫」)にわたる修行を経るとされていた。本覚は、出発点であると同時に、到達至難の目標でもあった。


■「になる」の消去

 このように、まず、如来蔵や仏性の思想は、仏「になる」可能性が人々に備わっていることを説いたのだが、ついで、本覚思想になると、本覚「になる」(目的性)だけでなく、「である」(本来性)が加えられることになった。

 そして、こうした思想が日本の土壌に根付き始めるとさらなる変貌を遂げ、中国の本覚思想とは異なる日本独自の「天台本覚思想」が形成されていく。ここでは、田村芳朗氏の「天台本覚思想概説」(日本思想大系九『天台本覚論』所収)に依拠しながら、変質の様子を概観する。

 日本で本覚思想を最初に取り上げたのは空海であった。彼は、『起信論』の注釈書を繰り返し引用して密教の体系化を進めた。ついで最澄もまた、瑜伽行派から生まれた法相宗との論争の中で、法華経の一乗思想に基づいて、すべての人に仏性ありと主張した。さらに、天台宗の密教化を進展させた円珍は、九世紀の後半に『本覚讃』(同書所収)を初めて説いたとされている。

 『本覚讃』とは、「帰命本覚心法身」(もとより覚っている心がそのまま真理であるということを信じます)に始まる七言八句の偈であり、本覚思想の要諦をわずか五六文字で表したものである。天台宗のみならず日本独自の山岳宗教である修験道にも多大な影響を及ぼし、たとえば、現在でも、奈良県吉野の金峯山修験本宗では、この偈を唱えて勤行を終える。

 このように、日本における本覚思想は、平安初期の導入当初から、密教的な背景に基づいて理解されてきた。もともと日本に伝えられた密教は、宇宙全体を大日如来という法身として捉える汎仏論に基づいており、現実すべてをそのまま仏として肯定する傾向が強い。そのため、日本では、本覚概念のもつ二面性の中でも、目的性の「になる」ではなく本来性の「である」に重心が置かれていった。

 そして、一二世紀も後半になって『本覚讃』の注釈書が作られていく際に、本覚概念から「になる」の側面が消去されるという決定的な一歩が踏み出された。そこでは、衆生が「仏の現れである」と説かれるようになり、ついには、現実や衆生が「真理や仏そのものである」という思想にまで極められた。

 鎌倉時代に入って撰述され、天台本覚思想の主張を網羅的に集大成した『三十四箇事書』(同書所収)では、たとえば、衆生が転じて仏「になる」のではなく、衆生は衆生のまま、仏は仏のまま、ともに真実「である」と説かれ(「仏界衆生界不増不減の事」)、あるいは、心なき草木は、心をもってから仏「になる」のではなく、心情がないままに仏「である」とも述べられている(「草木成仏の事」)。

 このように、天台本覚思想は、衆生はもちろんのこと、たとえ非情の草木であってもそのまま仏「である」ことを強調し、現実世界を全面肯定するに至った。すべてがそのまま肯定されてしまうということは、すなわち、何をしても/しなくても、あるがままでよいと宣言されたことになる。

 若き道元が疑念を抱いたのは、この思想に基づく修行のあり方についてであった。


■思想の「究極的なもの」

 <善きこと>は、最初、仏性思想において、可能性としての「になる」に過ぎなかったのだが、次の本覚思想では、目的としての「になる」であると同時に、本来の「である」でもあるというダイナミズムへと変容し、天台本覚思想に至って、ついには、現実そのもの「である」と断じられるようになった。

 しかし、衆生のみならず、山川草木に至るまで、そのままに仏であるとされるとき、世界は、起伏のないのっぺりとした平板な地となり、そこでは、あらゆる動きが止まる。

 というのも、まず、一切が等しく仏であるとしてしまえば、すべてがその本質において無差別となり、それぞれの個別性も凹凸も瑣末なこととして失われてしまうからである。また、一切の「になる」が取り払われることによって、変化の契機をもたない「である」だけで構成されることになるからでもある。

 何をしてもムダというのは、ニヒリズムであった。しかし、何をしても/しなくてもよいというのもまた、人間の営為をすべて無意味にしてしまう点では全く同じであり、結局、すべてがそのまま肯定されたとしても、世界は意味を生み出す運動を止め、人々は頽廃していく。

 おそらく、問題なのは、「すべては○○である」とする捉え方、すなわち、一切を一元的に語る姿勢である。中でも天台本覚思想は、「東西古今の諸思想の中で最も究極的なもの」(田村氏同論文)とまで評されるほど「絶対的一元論としての高度な哲理」を打ち立てた。

 もとより、おしなべて思想においては、いつの日か全称命題で一元論を語ることが夢ではある。これこそが思想というものの最奥部に巣くう欲望であり、思想というものを根本的に成り立たせている土台でもあるのだが、畢竟するに、言葉で世界を呑み込んでしまいたいという身勝手な貪欲さに他ならない。

 さらに、自戒を込めて付け加えるなら、その裏には、何でも呑み込んでしまえると過信する傲慢さと、呑み込んでしまえば後は頓着する気もないという怠惰な性根もまた潜んでいる。

 道元が投げかけたのは、こうした思想というものをどのように生きればよいのかという問いであった。もちろん、破戒を正当化するために、あるいは、修行を怠る口実として「何をしても/しなくてもよい」などと口にするだけであれば、そのときは、ニヒリズムともども弛緩した下等な思想と評されても仕方がない。しかし、その罪過は、思想の内実ではなく、単なる言い訳として都合よく利用する姿勢にこそ求められる。


 天台本覚思想は、画期的にもある一線を突破し、それによって、たしかに堕落を招く結果も生んだ。しかし、その一線を越えたときの緊張感をもし保つことができるのであれば、素朴に考えても、思想の「究極的なもの」を真摯に生きることは、生の「究極的なもの」を垣間見せてくれることになるはずである。