以下の文章は、「精神疾患」を一つの社会的な物語としてとらえながら、さらには、精神障害者が物語ることの困難さを概観し、精神障害者の物語をめぐる問題状況の整理を行うものです。

 初出は、『HIRC21研究年報第1号』(2004)所収の「精神障害者の物語をめぐる予備的考察」(一部改変)です。

1.精神疾患という物語

 物語とは、誰かが聞いてくれて、はじめて物語として成立する。たとえ、自分一人で語る場合であっても、語る自分と聞く自分とに分節される。物語については、「自由に語る主体」と「受け身に聞かされる客体」とによって成立しているかのような印象を受けることも少なくない。だが、人は、聞き取ってくれるような物語しか語れない。すなわち、聞き取ってくれそうだと思える人にしか語らない。と同時に、人は、理解できるような物語しか聞き取らない。すなわち、聞き取れそうだと思える人の言葉しか聞かない。聞く主体があって、はじめて語る主体が構成され、物語が成立するのである。したがって、語る主体は、決して自由奔放に語っているのではなく、聞いてくれそうだと思える範囲でのみ語ることが許されていることになる。

 物語とは、語る主体と聞く主体との相互作用の中でのみ形成されるという相互主体性を本質とする。だが、相互主体性は、主体間の対等性や対称性を何ら保証するものではない。そこには、語る主体と聞く主体とが主導権争いを演じるポリティクスが絶え間なく展開している。そして、両者の圧倒的な権力格差が露呈するのは、聞く主体が物語を拒絶することによって、語る主体を圧殺し、ついには黙する客体へと封印してしまうような場合である。そうした事態が精神疾患とりわけ統合失調症(精神分裂病)をめぐっては、これまでもそして今も公然と容認されている。

 たとえば、WHO(世界保健機構)によるICD-10(国際疾病分類第10版)は、分裂病(統合失調症)の諸症状の中で、思考について、次のように記述している。

 「思考の流れに途絶や挿入があり、その結果、まとまりのない、あるいは関連性を欠いた話し方をしたり、言語新作がみられたりする」(98頁)

 また、アメリカ精神医学会のDSM-4(精神疾患の分類と診断の手引第4版)には、精神分裂病(統合失調症)と診断すべき特徴的症状として、1か月の間に以下の5つの症状のうち2つ以上が存在することを挙げている。

 「1.妄想  2.幻覚  3.解体した会話(例:頻繁な脱線または滅裂)  4.ひどく解体したまたは緊張病性の行動  5.陰性症状、すなわち感情の平板化、思考の貧困、意欲の欠如」(119頁)

 最初に挙げられている妄想とは、非現実的な認識を確信し、かつ、その内容が訂正不能であることを指し、二番目の幻覚(主に幻聴)もまた、実際には存在しない声が聞こえてくる非現実的な感覚を本人が確信しているものであって、さらに、三番目には、まさに会話内容が意味不明瞭であるとされている。すなわち、ICD-10やDSM-4は、意味不明な言動を示す者に統合失調症という診断名を付与せよと指示していることになる。

 あるいは、日常的にも、通り魔的な動機などが理解しがたい事件が発生すると、新聞紙上では、記事の最後に「意味不明なことを口にしている」と付け加えられ、加害者の名前は伏せられることになる。

 つまり、非常に単純化していえば、この社会では、そもそも統合失調症を抱える人とは、何を言っているのかよくわからない人、何を考えているのかわからない人のことだということであり、それが、事件等に結びつくと、何をするかわからない人、すなわち、こわい人・危険な人とされることになる。統合失調症者とは、その言動が意味不明であると断じられ、妄想という症状に還元されてしまう人々のこととなる。

 さらに、精神疾患については、第三者的に捕捉された状態像と本人の自己物語として表出される主観的な捉え方とが大きく乖離していると見なされる場合もたしかに多い。たとえば、不安で電車に乗れない、食べる気が起きず食べても味がしない、雑音が自分に対する悪口に聞こえるなどいった表明は、いずれも本人の捉え方の問題であって、第三者の捉える状態像に還元することができない。そういう意味で、精神疾患とは、現実に対する捉え方の特異な有り様であるといってもよい。すなわちそこでは、本人の捉え方と周囲の人々の捉え方とが生活に支障を及ぼす程度にまでズレて、あるいは、乖離して、相互主観的な世界を構築するための通路が寸断されている。

 このため、精神疾患をめぐっては、いわゆる「病識の欠如」と呼ばれる特異な問題が発生する。病識の欠如とは、周囲の人々から見て異常であることが本人には異常とみなされていない事態を指している。すなわち、病気であるとの自己認識を本人が持っていないことである。だが、それは、本人からすれば、自らの捉え方と周囲の人々の捉え方とが通訳不能なほどに乖離していると決めつけられ、その上で、真理性をまとった医療の名の下に自分の物語が消去されている状態であるといえる。そして、それがさらに悲劇的であるのは、物語のみならず、日々の生活までもが拘束や強制入院という形態で、現実的に管理され、薬物によって抑制されてしまうからである。

 もちろん、こうした事情すべてをただ非難すればすむわけではないし、本人の物語を全面的に受け入れさえすればよいなどという主張は、理解はできても現実的とはいえない。しかし、それがどれほど仕方のないことであったとしても、精神障害者は、語りをめぐるポリティクスの中で、自らの物語を徹底的にないがしろにされ、現状に対する眼差しの設定についての主体性を剥奪されてきたことだけは確認しておく必要がある。

2.精神障害者の物語

 統合失調症の急性期と呼ばれる時期には、妄想や幻聴などの陽性症状が発現し、それによって、本人の思考や物語が非現実的ともいえるプロットにのせられたり、プロット自体が成立しなくて理解できないこともたしかにある。だが、そうした状態が永続することは、今では稀であり、薬物療法によって、陽性症状は軽快する場合がほとんどである。

 しかし、集中力が続かない、意欲が低下する、考えがまとまらないなどのいわゆる陰性症状が残存し、生活上の困難を引き起こすことが少なくないのも事実であり、そういう状態にある方たちは、精神「障害者」と呼ばれている。

 精神「疾患」が現実に対する本人の捉え方と周囲の人々が受け取る状態像との乖離であるとすれば、精神「障害」とは、両者が乖離しやすくなっている状態、あるいは、乖離を一定範囲に納めるために生活を制限せざるを得ない状態であるといえる。乖離を「非現実的」ともいわれるまでに拡大させないために、精神障害者は、たとえば、服薬を欠かせなかったり、未知なるものとの出会いを避けようとしたり、なじんでいくのに時間がかかったり、生き方を変えることができなかったり、などのさまざまなしかしその人なりの制限を自らに課さざるを得ないといった微妙なバランスの上に生活を成り立たせている。

 では、このような脆さを抱えている精神障害者の物語にはどういう特徴があるのだろうか。以下では、物語の形式基盤である因果関係を成立させる時間軸に沿って、過去・現在・将来といった三つの相で整理してみる。

 1.原因の特定不能性

 精神障害者、および、その家族が物語を構成しようとする際に、まず苦しむことになるのは、精神疾患の発病原因がわからないということである。これは他の障害と若干異なる事情であって、原因を特定することができないまま、かといって、確率的な偶然性でもなく、何かが悪かったのだろうとは思うものの、その何かがわからず、なぜ、自分(あるいは家族)が発病しなければならなかったのかという問いを消し去ることができないまま放置されることである。

 精神医学は、これに対して、ほとんど原因追及を放棄しており、もちろん、脳内神経伝達物質の異常で症状が発生する機序は解明されつつあるが、なぜそうした物質が増減するのかということについては、考えられる変数が多すぎて、一義的な解を導出することはできない。

 原因を特定することができないということは、因果関係を内包する物語の構成にとって、その出発点を定位させることができないということを意味している。したがって、この原因探しの問いにとらわれている限り、障害を抱えながらこれからどのように生きていくのかという物語を構成することは困難となる。原因探しにこだわっていると、過去にばかり目が向いて、今を見据えたり、将来を描くなどということができないからである。

 2.障害の不可視性

 自宅での療養から何らかの社会資源を活用するといった次の段階に移行していく人たちは、「病気になってしまったから」と口にすることが多い。これは、原因や理由はどうあれ、こうなってしまったという今の状態と向き合うしかないというあきらめをも含む出発点の措定である。原因の追及を断念することによって、とりあえずは、病気になった時点から物語を始めることになる。

 しかし、「こうなってしまった」と言いつつも、「こうなった」が一体どうなったのかは、本人にもすぐには把握し切れない。すなわち、病気の程度や正体については、手探り状態のままであり、一体何ができて、何がどの程度できなくなったのかが見えにくい。「障害の不可視性」と呼ばれるこうした特徴もまた精神障害に特有であり、結局、少しずつ何かをやってみて、今の自分を理解していくしかないことになる。

 そして、これがまた非常につらい作業となる。というのも、これまで当たり前にできていたようなこと(本を読む、音楽を聞く)さえ、ときには集中して継続できないことも多く、まさに、「こんなはずではなかった」という事態に陥るからである。障害というものが先に存在していて、それを理解していくのではなく、できない経験を積み重ねながら、障害を自ら知っていくということは、いわば、自分自身にマイナスを積み重ねながら自分を語っていく作業となる。

 もちろん、こうした過程自体は、中途障害の方であれば、障害種別を問わず共通しているのであるが、ただ、精神障害に関しては、なぜこれができなくなったのかという理由もわからないために、一層正体がつかみにくく言語化しづらいため、現在の状態を物語として構成することが困難になる。

 3.病状の易変性

 さらに、精神障害をめぐる物語の構成を困難にしている特徴として、容易に急性期(陽性症状の発現)へと戻ってしまう再発の問題がある。ついこの間まで落ち着いて穏やかな表情をしていた方が、極端にいえば、一晩で、あるいは、1~2週間ぐらいかけて、徐々に目つきがきつくなり、表情がこわばって、再び妄想・幻聴の世界へと舞い戻ってしまうことがある。服薬を中断したとか、就労などの新たな環境に入って過重なストレスを感じ始めたときなど、いわゆる、頑張っているときに発生しやすいのだが、病状が変わりやすい(易変性)ということは、二重の意味で見通しが立たない状態におかれることを意味している。

 一つは、回復に向けた小さな努力が必ずしも蓄積されるわけではないということである。少しずつ落ち着いてきて、もう少しで次の段階へというところで、すべてがご破算になってしまう可能性におびえ続けなければならない。

 もう一つは、逆に、予想もしなかった飛躍的な回復というものも、実際にあり得るということである。特に何をしたわけでもないのに、霧が晴れたように、スーッと楽になることがある。だが、かといって、そうした状態が永続するのかといえば、その保証は全く得られず、いつまた再びどんよりとした霧に覆われてしまうのか、再び世界が恐ろしい形相で自分を追い詰めてくるのかはわからない。

 よくなってきたと思ったら、引き戻され、変わらないと思っていたら、霧の晴れることもあるということは、結局、自分の状態を信頼することができず、将来的な見通しをもてないことである。別の言い方をすれば、精神障害とは、自分に裏切られてしまうおそれを抱え込むことでもあり、それによって、将来像を描きにくくなって、安定的な物語の構成が困難となるのである。

3.物語の手前

 このように、精神障害を抱えるということには、たとえ、陽性症状による妄想的な状態を脱したとしても、安定的な物語を構成する上で、時間相に沿った三つの困難さがつきまとう。一つは、過去に対して、原因を特定し理解することができないことであり、また、現在に対しては、一体何がどの程度できないのかが自分でもよく見えないことであって、さらに、将来に対しては、常に裏切られてしまうおそれを意識せざるを得ないことである。

 では、精神障害を抱える人たちは、何らの物語もなく茫漠たる世界を生きているのかといえば、それは、まさにさまざまであるとしかいえない。すなわち、一方には、過去を振り返らず、将来を展望せず、一日一日をひたすら波風立てないように、決まったスケジュール、決まった食事、決まった場所といった、非常に狭く、だからこそ安定した世界を、ただただ淡々と、まさに倦むことなく、ひっそりと過ごしている人々が大勢いる。

 だが、もう一方には、マスコミの取材を受け、ビデオに収まり、全国を講演して回るような華やかな人々もごく一部いて、そういう方たちの物語は、病的な体験をユーモラスに語り、また、明るく笑い飛ばすような元気さもあって、とても聞き心地がよく、また、ある種の開き直りによって既成の価値観を転倒させ、新鮮さを感じさせるものに仕上がっている。

 そして、一つの研究領域としては、こうした華やかともいえる物語が構成された条件やプロセスを明らかにし、内容を分析して、類型化したり段階に整理したり、あるいは、プロットを定式化していく作業がたしかにある。おそらく、そうした物語は、多くの場合、「病気にかかってつらい思いをした → でも、同じ体験を持つ仲間と出会って受け入れられた → 今は病気を抱えながら頑張っている」といった「試練」と「生まれ変わり」によって特徴づけられることになる。

 だが、そうした聞き心地のよい物語ばかりに注目することは、また新たな権力関係を精神障害者の周辺に隠微な形態で張り巡らせることでもある。再び援助の場面に戻るならば、たとえ、理論や専門用語を括弧に入れ、知ったかぶりをすることなく本人の語る物語を最大限に尊重するとしても、語りを「受容」「探求」「回復」などといった筋書きへと鋳造してしまうならば、意図的であるかどうかは別としても、結局、語りの空間を狭隘なものへとゆがめていることになる。真理が権力の衣装であるのと同様に、「よい物語」もまた権力の隠れ蓑になる危険性を有している。

 繰り返すが、精神障害者の物語は、長きにわたってその存在が否定されてきた。近年は本人の物語が尊重されつつあるのだが、先に見てきたように、精神障害者は、過去/現在/未来を俯瞰する安定的な物語の構成を妨げられている。そのため、物語にのみ焦点を当てようとするならば、物語化の強制といった形でポリティクスが露骨に発動し、あるいは、物語にならない断片的なエピソードは看過され無視されてしまうといった事態も発生しうる。

 だが、細切れのエピソードがある人の生活状況を雄弁に物語るときもある。さらには、物語のずっと手前、エピソードにさえならないところで、言葉によってはすくい取れない思いというものもある。だからこそ、言葉以上に語る沈黙が存在するのである。したがって、おそらく、援助の場面には、あえて物語化を目指さない語りの空間設定というものがあってよい。もちろん、本人の物語を尊重しようとする基本姿勢の意義を疑うものではないが、援助の場面に立ち会うことには、沈黙に聴き入ることもまた含まれていなければ、物語の手前に置かれた大切な何かを切り捨ててしまうだけのようにも思われる。物語にもならない言葉の断片や沈黙をただ聴き取り収集していくことが本人の語る力を育てることになる場合も少なくないはずなのである。

 本人の物語を尊重すること、あるいは、聴き取ることの意義や機能については、近年多くのことが語られるようになっている。だが、それによって、逆に、語りを促される本人にとっての未だ物語になっていない何か、言葉にすらできない何かが隠蔽されてしまっているのではないかと感じるときがある。少なくとも精神障害者についていえば、その物語はあまりにも脆弱である場合がほとんどであり、いかに一部で賦活的な物語が語られ始めたとしても、物語というものがカバーしている範囲はあまりにも狭い。

 また、物語への注目は、語りの主体や語られた内容、さらには、語りの変化といった側面への焦点付けに収斂していくことが多いようにも感じられる。しかし、先にもふれたように、物語が相互主体的あるいは相互構成的であるとするならば、聞く側の姿勢や枠組みを等閑視することは許されない。語りの空間を確保するといっても、その空間の設定は、聞く側、援助者によって、大きく決められている。聞く側はどのような物語を「好む」のか、あるいは、物語の手前、言葉の手前にもどれほど耳を傾けようとしているのかといったことを問い直すことなしに、構成された物語だけを論じることは、あまりにも一面的である。

 そしてまた、聞く側に位置づけられた人々も、ただ聞くだけでなく、必ず語ってしまうものである。質問やアドバイス、同意や不同意だけでなく、何も語るまいとすること自体が一つの表現になってしまうからである。何を尋ねるのか、何にうなずくのか、何を語らないのかといったことは、すべて聞く側の価値観や人生観などの物語に裏打ちされ、それもまた、社会的に構成され流通している大きな物語の影響に色濃く染め上げられている。