はじめに

 「人を助ける」というニュアンスを含む言葉は、決して少なくない。たとえば、「援助」や「支援」をはじめ、「介助」や「救助」など、あるいは、「ケア」や「サポート」などもよく使われている。そして、これらはいずれも、ある人が別の人に対して直接的に、あるいは、その人のおかれている環境に対して間接的に、何らかの働きかけを行うことを示している。すなわち、これらは、「助ける」という言葉と同じく、声かけなどをはじめとする何らかの「行為」を表している。

 したがって、たとえば「支援」という名詞で語られるとしても、その内実は、「支援する」という他動詞であることになる。そのとき、支援に関わる人々は、二通りに区別される。すなわち、「支援する人」である支援者と「支援される人」であるクライエントに分かれる。また、支援にとどまらず、一般的に「~する人」は「主体」、「~される人」は「客体」と呼ばれる。ここから、支援者とクライエントとの関係性は、主体-客体関係(主客関係)であるということになる。

 もちろん、個別具体的な実践における主客関係は、固定的であるわけではなく、たとえば、支援者の側で忘れていたことをクライエントから教えられたり、思い違いを指摘されたりするなどということもないわけではない。すなわち、支援者といえども、あらゆる援助場面で、常に変わらず「~する主体」であり続けるというわけではない。とはいえ、ここでは、一旦、実際の場面は捨象し、それぞれの立場として、主体的である支援者と客体的であるクライエントとの位置付けを前提として論を進めることにする。

1.非対称性とパラドックス

(1)主客関係からパートナーシップへ

 ソーシャルワークの実践が何らかの行為を表している限り、それは主客関係に基づいて展開される。この「~する主体」と「~される客体」という二者関係こそが非対称性の根源であるととりあえずは述べることができる。そのため、ソーシャルワークにおける支援関係は、もともと非対称的でしかないということになる。

 とはいえ、ソーシャルワーカーたちは、こうした非対称的な関係性を好ましいとしていたわけではなかった。実際、リッチモンドは、最初の著作で貧しい人々にとっての「真の友人」になることを友愛訪問員の条件に位置づけており、非対称的な関係を逆に「専門職的」であるとして、必ずしも快くは思っていなかった(稲沢、2005:197-205)。

さらに、ソーシャルワークがクライエントの自己決定をどこまでも尊重しようとしてきたのは、クライエントを自分自身で決定する主体として位置づけることにこだわり続けてきたからであるともいえる(バイステック、1996:原則6)。

そして、何とかクライエントの主体性を尊重しようという姿勢にジャストフィットしたのが、1970年代後半に導入されたエンパワメントという概念であった(Solomon、1976)。エンパワメントは、ある個人が無力な状態に陥っているとすれば、それは、その本人に原因があるというよりも、否定的な評価を投げつけてくる抑圧的・差別的な環境にこそ原因があるとする考え方に基づいている。したがって、そうした環境を改善することによって、クライエントが本来有しているパワーを活性化させ、その主体性を取り戻すことができると考えられた。

こうした文脈において、支援関係の非対称性を減じる方策は、「パワーの共有(sharing)」と呼ばれているが、その理想型において、「パワーを共有するということは、クライエントをエンパワーすることであり、かつ、クライエントをエンパワーすることがわれわれ自身をエンパワーするのである」といった相互的かつ対等な関係性が生じるとされた(Pinderhughes、1983:338)。

さらには、パワーの共有や対等性、相互性といった特徴をふまえながら、「エンパワーする関係性を表現するには、おそらく、パートナーシップが最も適切であろう」とも述べられるようになる(Hartman、1993:504)。このように、パートナーシップを前面に掲げることによって、支援関係における非対称性が払拭され、クライエントの主体性を最大限尊重することができると考えられたのであった。

(2)エンパワメントのパラドックス

 とはいえ、エンパワメントに基づいてパートナーシップを実現すれば、非対称性の問題が解消されるわけではない。たとえば、Gruber & Trickettは、公立高校で、あるグループが他のグループをエンパワーするよう制度的に位置づけたところ、エンパワメントの効果が減少する事実を確認し、それを「エンパワメントのパラドックス」と名付けた(Gruber & Trickett、1987:366)。

ここでいわれるパラドックスとは、当初意図していた目的とは正反対の結果が生じてしまうという逆説を意味している。すなわち、エンパワメントのパラドックスとは、ある人が他の人を意図的にエンパワーしようとすればするほどに、エンパワーされた人は、自らエンパワーしていく力を失っていくという事態を表している。

 この指摘を受けてSimonは、「援助者がクライエントをエンパワーする」ことと、「クライエントが自らをエンパワーするように援助する」こととの、微妙なしかし重要な違いを強調しながら、ソーシャルワーカーに「エンパワーされた」クライエントというものは、自律性(autonomy)の獲得に向けた基盤を失っていると断言している(Simon、1990:32)。結局、いくらエンパワメントを強調しても、それがソーシャルワーカー主導で行われる限り、クライエントは、エンパワーされる客体にとどまってしまうのであった。

 このように、エンパワメントを支援理念として意図的に支援を提供しようとしても、支援者がパワーを付与すればするほど、クライエントとしては、パワーを付与「される」ことになって、自ら主体的にパワーを獲得していく力が弱体化してしまうというパラドックスが発生してしまう。

たとえば、「治療は、どんなよい治療でもどこか患者を弱くする」(中井、1982:64)ともいわれるように、このパラドックスは、支援者の姿勢の問題でもなければ、技法上の問題でもなく、エンパワメントという概念に基づくかどうかにかかわらず、支援という行為全般に内包された本質的ともいえるパラドックスである。そのため、パートナーシップの名の下で、このパラドックスを看過することや、あるいは、非対称性を乗り越えられるなどといった安直な幻想をもつことは許されないことになる。

エンパワメントを支援理念の中核として位置づけるかどうかにかかわらず、支援者は、「支援する」という行為において、クライエントを「支援される」側に位置付けてしまうため、このパラドックスから逃れることはできない。

ということは、個別具体的な支援の場面において、「こうすればよい」という一義的な正解を確定させることができないということになる。というのも、エンパワメント概念をどこまで自覚的に意識するかにかかわらず、「こうすればよい」と意図していたことがいつしか反転し、意図せざる結果が生み出されるというパラドックスをなくすことができないからである。

であるとすれば、支援に求められているのは、何らかの「正解」をあらかじめ決めてしまうようなことではなく、パラドックスを見すえながら、その都度その都度手探りで、クライエントとともに対話を重ね、支援の方向性やあり方を、常に、互いに模索し続けていくことであるということになる。

とはいえ、支援者は、対話をうっかり忘れてしまうことがある。そして、思いもかけない「つまずき」に見舞われてしまう。

2.共同作業から「臨床」へ

 (1)共同作業としての援助

窪田暁子は、その著『福祉援助の臨床』の中で、援助活動の中核を「援助関係」であるとして、次のように断言している。「援助専門職の担う援助において、援助を援助たらしめているもの、援助を成立させているものは、クライアントと専門援助者の間に成立している援助関係である」(窪田、2013:17)

さらに窪田は、援助関係の内実を「共同作業」という言葉で表現している。とりわけ、援助活動を実際に展開していく際には、最初のステップである「課題明確化」から始まって、アセスメントや援助計画(目標・方法・期間)の設定、さらには終結に向けた評価まで、それぞれのステップがいずれもクライアントとの共同作業であると確認されていく。

そして、つまるところ、「援助は共同作業である」(窪田、2013:154)ということになる。窪田は、いずれのステップにおいても、この一点をはずすことがない。この点について、窪田は、「援助を、援助者と被援助者との共同作業であるとすることの根拠は、いかなる援助も、それを使う人間の『利用者』としての参加がなくてはそもそも援助にならない、という単純な事実に由来する」(窪田、2013:156)と明快に指摘している。

こうした共同作業としての援助といったとらえ方は、まさに、援助関係の非対称性を解消する試みの一つであると位置づけることができる。ところで、窪田がこうした援助観を基盤にすえるようになった背景には、手痛い「つまずき」の体験が存在していた。

(2)「社会正義と公正のため」

この本には、窪田自身の実践経験におけるエピソードが、「寸景」と題して40以上にわたって各所に埋め込まれている。それによって、既成の理論を振りかざすのではなく、具体的な実践場面において得られた洞察や考察にしたがって、援助活動を展開する際に留意すべきことが丁寧に整理されている。

そうした寸景の中でも最も長いのが「寸景26」(窪田、2013:157-60)であるが、その冒頭で、自らの体験を「忘れがたい事例はたくさんありますが、そのなかに、相手に対して本当に失礼なことをしたと、いまだに冷や汗をかく面接の記憶があります」として、深い反省とともに語っている。

 1960年代後半、50歳代の女性薬物依存症者が窪田の勤務先であった精神科病院に措置入院していた。県知事の命令に基づく強制入院である措置入院では、医療費が全額公費負担になるからであった。しかし、経済的理由による強制入院なるものは、制度の非本来的な利用にすぎないため、窪田は、「正しいこと、あるべき姿、社会正義と公正のため、との気負いもあり」(窪田、2013:158)、また、相互信頼の関係も築かれていると思われたので、女性に対して、退院して生活保護を受給しながら地域で暮らすことを熱心に説得した。

 しかし、それに対する女性の返事は「このままでいい」であった。さらに、続けて強い口調で「私は県知事の命令でここに入院しているんです。だから、動きません」(窪田、2013:159)と言い放った。すなわち、窪田の提案は、強烈に拒絶されたのであった。

 女性には、家庭を持っている実姉がいて、外泊の際には、何度か泊まりにいくこともあったのだが、おいの受験もあって居場所がなくなり、自分の茶碗や箸が家族とは別のところにおかれるようになったことなどを窪田に語っていた。

そのように地域でのかかわりが必ずしも歓迎されているわけではなく、長い老後も含めて地域での生活に不安を覚えていたにもかかわらず、窪田は、そうした不安をくみ取ることもなく、ただ「私は正しいことをしていると、そのときは愚かにも信じて」(窪田、2013:160)措置解除を強引に迫ったのであった。

 結果的に、窪田の提案は頓挫し、女性の「不安を増加させる以外の何の成果ももたらさなかった」(窪田、2013:160)と厳しく振り返ったのち、この寸景を次のように締めくくった。「私はこの事例からの教訓を忘れません。もっともっと彼女の世界を共有し、共に考えつつ、その権利と自由を護るべきであったと。もっと正当に彼女の不安を理解し、受けとめていたなら、彼女も喜んで生活保護への移行を承知したにちがいないと、今は考えています」(窪田、2013:160)。

 対話によって本人の意向や感情を理解し受け止めるというわずかな手間をうっかり省き、「よかれ」と思い「正しい」と思ったからこその提案が見事なまでに拒否されるという「つまずき」、すなわち、手痛い失敗体験であった。この寸景から本文に戻ってすぐさま、窪田は、次のように結論付けている。「結局のところ、援助の目標、方法、期間について、本人との共同作業によって一致していなければその援助計画は空しく、ワーカーの独り善がりに終わりかねない」(窪田、2013:160)。

 こうして窪田は、「つまずき」経験を踏まえて、共同作業としての援助という考え方を援助論の基盤に位置付けたのであった。

(3)「臨床」へ

このように、共同作業であることが援助の基礎にすえられると、今後は、「援助」という概念そのものが窮屈なものになってしまう。「はじめに」でふれたように、「援助する」という他動詞は、「~する主体」と「~される客体」とで構成される非対称的な関係性を生み出す。そのため、共同作業として位置づけようとする場合には、必ずしも適切な言葉であるとはいえないことになるからである。

 そこで窪田は、「臨床」という言葉を導入した。臨床とは、字義通りにいえば、「(病に伏す)床に臨む」ことであるが、少なくとも、臨床という言葉がそのまま動詞になることはない。そして、次のように断言した。「臨床という視点に立つことによって、『援助』がクライアントとの『共同作業』であることを、より明確に描写できる。<中略> そこにはさらに、ワーカーの側からの働きかけに限定せず、クライアントの側の存在やその働きもまた、無視することなく視野に入れることができるであろう」(窪田、2013:34-5)。

 この「臨床」という概念を導入するにあたって、窪田が参照したのは、哲学者中村雄二郎の著『臨床の知とは何か』(岩波新書、1992)であった。同書の中で中村は、科学に代表される「近代の知」では、観察主体から観察対象が切り離されており、それによって、観察主体の有り様は全く問われることなく、一方的に観察されるだけの対象が客観的に分析され、論理的な因果関係に組み込まれて、そこでみられる法則が普遍的に妥当するとされてきたと指摘している。

 それに対して、中村による「臨床の知」は、「個々の場所や時間のなかで、対象の多義性を十分考慮に入れながら、それとの交流の中で事象を捉える方法である」(中村、1992:9)とされている。すなわち、「臨床の知」では、観察者が観察対象から切り離されず、臨床という場において両者が影響を与え合う交流が行われているのであった。

 このように「臨床」は、決して動詞になることのなく、個別具体的な時空間を表しており、そこでは、いくつもの意味をもつ多義的な動きが生み出され、人と人との交流、すなわち、「共同作業」が成立するというわけである。

 クライエントからの拒絶という「つまずき」の実例は、他にも残されている。

3.「足元があやうくなるほどの経験」

(1)「人間として対等」

先に、エンパワメントの概念がパートナーシップといった関係性を求めるものであること、しかし、そこにもパラドックスがひそんでいることを指摘した。日本でも、久保紘章は、援助関係の基本をパートナーシップと位置づけ、「パートナーシップは、当事者の人たちと『人間として対等である』ことが原点である」(久保、2004:146)と断言している。

ここで着目すべきなのは、パートナーシップについて、ただ単に「対等である」というのではなく、「人間として」と付け加えられていることである。その理由については、次のように述べられている。「専門家、援助者というように足元が固まったところから患者をみる、というのではやはりもの足りなさがある。足元が危うくなるほどの経験の中で、当事者が見えるのではないだろうか」(久保、2004:93)。

すなわち、「足元があやうくなるほどの経験」をするとき、人は、専門家や援助者としてではなく、一人の「人間として」クライエントに対峙せざるをえないというわけであり、さらに補足すれば、援助者が自分の意思で援助者という立場や専門性を捨てるのではなく、捨てざるを得ない地点にまで追い込まれること、すなわち、受け身の立場で、どうすればいいのかわからないような状態に追い詰められること、そうしたいわば全面降伏とも呼べる経験によって、援助者は、一人の「人間として」立つことを余儀なくされ、そのときには、主客関係を超えたパートナーシップが実現するということになる。

そして、こうした援助者としての「足元があやうくなるほどの経験」を実際に経験したのが尾崎新であった。

(2)「熱心な援助者は迷惑」

 精神科での現場実践を踏まえて、援助とは何かといった本質的な問いついて思索を深めていた尾崎は、その著『「現場」のちから』において、「現場の力とは何か」を考える上で忘れられない体験があると述べている。

 それは、尾崎が大学を卒業し、精神科の病院にPSWとして入職して間もない頃のことであった。患者Aさんは、50歳代半ばの小柄な男性で、入院して15年になるが、ここ数年症状の再発は全くなく、病棟から近くの工場に働きに出始めて3年間、何の問題もなかった。ただし、家族が彼の退院を拒んでいたようだが、そんなAさんに対して退院支援を開始し、面接で退院の実現に向けた方策を提案し始めたときのこと、感謝されるものと思いこんでいた尾崎に、Aさんが放った言葉は、まさしく強烈であった。

 その時のことを尾崎は次のよう述べている。「彼と退院をめぐる面接を開始した。病棟の面接室に現れた彼は、椅子に座って黙りつづけた。筆者は退院を実現する方策を一緒に考えたいと伝えた。ついで、筆者が彼の家族と面接したり、家庭訪問したりしたい旨を提案した。彼が積極的に筆者の提案を受け入れてくれると信じていた。したがって、彼の口から帰ってきたことばが信じられなかった。『仕事熱心な援助者は迷惑なんだよ』。彼はたしかにこう言った。そして、しばらく沈黙をつづけたあと、何も言わずに面接室を立ち去った。以来、彼は明らかに筆者を避けるようになった」(尾崎、2002:16)

 窪田と同じく、「よかれ」と思って行った退院という提案が根本的に拒否されたのであった。それはまさに、援助者としての「足元があやうくなるほどの経験」であったといえる。

尾崎は、新人PSWとして、Aさんを「退院できる人」とストレートに捉えた。そこには、何の悪意もなく、また、その捉え方が間違っていたわけでもない。たしかに、Aさんは、「退院できる人」だった。しかし、同時に、にもかかわらず、家族の反対もあって、退院するわけにはいかないという容易に動かしがたい事情を抱えた人でもあった。それが当時の尾崎には見えていなかった。

 これは、あくまでも想像にすぎないが、かつて病状が悪かったころには、Aさんご本人こそが「お前がいると迷惑なんだよ」とご家族や周囲の方たちにくり返しいわれ続けてきたのではなかったか。そのため、自分の退院はみんなへの「迷惑」でしかないと自らに言い聞かせて、あきらめてきたのではないか。だからこそ、退院を勧めるPSWにも同じことば「迷惑」が投げつけられたのではないかと推察される。

(3)30年後の回顧

このように、「足元があやうくなるほどの経験」とは、専門職として、「本人のため」に提案したことが、クライエントの側から全力で拒否されるような経験であったといえる。そして、真のパートナーシップを実現するためにも、こうした経験の重要性を久保は説いていたのであった。しかし、一般的に、「足元があやうくなる」ほどの強烈な経験は、その本人を深く傷つける。

そのため、尾崎はその頃を回顧して次のように述べている。「しかし、このことばの陰には、彼らの声にならない声が発せられていた可能性がある。『熱心な援助者は迷惑』は、じつは『退院したい』『夢を実現したい』という必死な願いを自ら打ち消そうとする大いなる葛藤を表現していたのではないかと思う。<中略>しかし、当時の筆者は彼らの声にならない声を受け止める力をもっていなかった。彼らのことばを『拒否された』『分からない』としか考えられなかった。そして、彼らへの働きかけをあきらめ、彼らと向き合うことをやめてしまった」(尾崎、2002:20-21)。

さらに、尾崎は、こうした経験から援助者としての無力さを感じ、実際、入職3年にして病院を辞し、都立の研究所に転職する。そして、次のように問うている。「筆者は彼らから逃げることによって、自分からも逃げたのである。ほとんど何も語らず、多くを表現することのなかった彼らは無言のままで、逃亡する筆者の姿をどのような思いで見たのだろうか」(尾崎、2002:21)。

この悲痛ともいえる回顧が30年という年月を経て、ようやく書き留められていることからも、尾崎にとっては、「つまずき」などという表現では軽々しすぎるほどのあまりにも重い経験であったことがうかがえる。

(4)拒否する患者と逃げた支援者

 窪田や尾崎が直面したのは、「よかれ」と思ったからこその提案が、結局、患者さんのかかえる不安や生きてきた背景についての配慮や気遣いを欠いたことによる手痛い「つまずき」であった。

だが、あまりにも皮肉なこととしかいえないのだが、これらの場面において、クライエントの主体性は、見事なまでに立ち現れている。すなわち、クライエントは、このとき「拒否する主体」だったのであり、それに対して、支援者は、「拒否される客体」であったといえるのである。

尾崎は、この経験に対して、先にも引いたように、「彼らへの働きかけをあきらめ」、あげくに病院を退職した。つまり、本人もいうように、「逃げた」のであった。それは、「拒否された客体」としての支援者から、「逃げる主体」を選んだということである。だが、逃げる者を支援者と呼ぶことなどできるのだろうか。結局、この選択が、彼をして30年にも及ぶ自問自答へと追い詰めることになる。

そして、彼は次のように結論付ける。「クライエント・援助者にかぎらず、いかなる人生にも矛盾や謎、葛藤が存在する。絶対的解答のないテーマ、矛盾に満ちた人生の前で、いかなる人も悩み、無力さを痛感する。この点で、援助者とクライエントは対等である。援助というかかわりはここからはじまる。援助者が相手と自分の葛藤から逃げださないこと、否認しないこと、これが援助の出発点であり、現場の力の基礎である」(尾崎、2002:19)。

 そもそもクライエントとは、自分の人生から「逃げられない者」のことである。それに対して、支援者とは、いつでも支援の場面から逃げだせる者のことをいう。こうした「逃げられる者」と「逃げられない者」の関係性こそが、冒頭で取り上げた「~する主体」と「~される客体」との非対称性をさらに根底で裏打ちしている始源的な非対称性である。というのも、クライエントは、「逃げられない者」であるからこそ、「~される客体」の位置に甘んじて、クライエントであり続けるしかなかったからである。

尾崎は、身をもってそのことを知ってしまった。そして、クライエントもまた、わかっている。支援者とは、いつでも「私」のことを見捨てることのできる人であると。

 しかし、逃げることができるということは、同時に、逃げない決意をすることができるということをも示している。そして、あえて逃げださない決意をすることは、二人の間にある「逃げられる者」と「逃げられない者」という、単なる構造的な枠組みとして与えられただけの非対称性を、その根源において自らの意志で選び取り、「逃げない者」と「逃げられない者」という新たな非対称性へと能動的に変換する覚悟であるといえる。

 そうした覚悟がたしかに30年かけて尾崎のたどり着いた「援助の出発点」を形作る。

4.他者と向き合う「対話」

(1)他者とは

 窪田や尾崎は、思いもかけない場面で「拒否する主体」としてのクライエントに直面し、まさに困惑した。そのようなクライエントは、彼女らにとって想定外でしかなかった。しかし、そもそもクライエントとは、支援者にとって、「わからなさ」をかかえた「他者」なのであった。

他者ついては、さまざまな議論が積み重ねられてきているのだが、その要点の一つは、私にとって、他者の経験は直接的には与えられないということにある。たとえば、痛みを例にあげると、私の痛みは、私に対して直接的に与えられ、私はまさに「痛む」ことになるが、他者の痛みは、私には直接与えられることがない。

もちろん、他者が痛んでいることは、その叫びや表情、姿勢などから間接的に推測することはできる。しかし、私は他者の痛みを痛むことができない。したがって、私にとっての他者とは、その経験が間接的にしか与えられないような存在であるといえる。

 このことを拡張していくと、他者が何を考えているのか、何をしようとしているのか、何をどのように感じているのか……などといったことも、すべて私は直接的に知ることができない。もちろん間接的にうかがい知ることはできる。だが、他者は痛いふりをすることもできるし、考えていることや感じていることについて嘘をつくこともできる。私は、それを見抜けることもあれば、見抜けないこともある。

 すなわち、そもそも他者であるクライエントとは、私の理解や把握を、推測や予想をいつでも超える可能性を有する存在だということになる。理解できないわけではないし、予想がつかないわけでもない。期待通りに動いてくれることもある。しかし、クライエントが他者である限り、私の理解や推測に回収し尽くすことはできない。他者には、端的に「わからなさ」がひそんでいるとしかいえない。

このように、本来、クライエントとして現れる他者とは、「わかならさ」を秘めた存在にほかならない。であるとすれば、支援することとは「わからなさ」と向き合い、共にあることを意味する。にもかかわらず、勝手に「わかった」と思った瞬間にズレが生じて「足元があやうくなるほどの経験」をすることになる。

わからないことについては、本人に聞いてみるしかない。にもかかわらず、窪田や尾崎の失敗体験のように、その一手間がうっかり抜け落ちる時がある。すなわち、「わからなさ」をいつしか飛び越え、それが善意からあるいは正義感からであったとしても、越えてはいけない一線を越えてしまうことがある。そのとき、突如として「拒否する主体」が姿を現し、支援者は、手痛い「つまずき」を経験する。

 (2)対話における「無知の姿勢」

 「わからなさ」を解消しつくすことはできないのだが、少しでもわかろうとするならば、本人との対話を繰り返し積み上げていくしかない。それは、いいかえれば、クライエントの語り(ナラティブ)を最大限に尊重しようとする姿勢を打ち出すことになる。

そして、そうした志向の延長線上に「無知の姿勢(not-knowing position)」(アンダーソン & グーリシャン、1997:64)と呼ばれる支援者の立場が位置付けられる。無知の姿勢とは、ただ、わからないと投げ出すことではなく、クライエントに関心を持ち、クライエントを少しでも理解したいと願い、クライエントの語りに対し、支援者がその内実を知っているわけではないことを自覚した上で、クライエントの語りに真剣に耳を傾け、クライエントから学ぶことを意味する。

それは、あらかじめ用意された専門的な知識や理論的な枠組みで一方的に判断したり、支援者側の意見や期待を示したりすることではなく、クライエントの語りが持つ固有性を掘り下げていくために、クライエントによってたえず「教えてもらう姿勢(being-informed position)」(アンダーソン & グーリシャン、1997:68)を保つことなのであった。

 支援者がこうした姿勢を取るとき、クライエントは「語る主体」として上位に立ち、支援者は、語りの内実に対して無知であり、だからこそ教えてもらわなければならないといった下位におかれることになる。そして、こうした関係のあり方を示す表現が「クライエントこそ専門家である(The Client is the Expert)」(アンダーソン & グーリシャン、1997:59)なのであった。

 ここでは、「~する主体」としての支援者と「~される客体」としてのクライエントとの関係性が逆転し、「語る主体」としてのクライエントと「聞かされる客体」としての支援者とに立場が入れ替わっているようにも見える。とはいえ、アンダーソンたちは、あくまでもクライエントとの「対話」を重視しているのであって、ただ一方的に聞かされるだけの立場を支援者に求めているわけではない。

 というのも、「人(クライエント)は他者(支援者)とともに作り上げた物語的な現実によって自らの経験に意味とまとまりを与え、そうして構成された現実を通して自らの人生を理解し生きる」(アンダーソン & グーリシャン、1997:62 括弧内引用者)からである。

まさに、窪田の「共同作業」と同じく、クライエント単独ではなく、支援者と「ともに作り上げた物語的な現実」によってこそ、クライエントは自らの人生を軌道修正していくのであり、そうした過程において、支援者とクライエントは、「新しい意味、新しい現実、そして、新しい物語を共同で開発する」(アンダーソン & グーリシャン、1997:67)といった関係を作り出すことになる。

 では、「クライエントこそ専門家」とも表現される関係性において、非対称性は霧散したといえるのであろうか。

5.パラドックス再考

(1)「クライエントこそ専門家」のパラドックス

 支援者が「無知の姿勢」を示し、クライエントを本人自身についての専門家として捉えなおすことによって、「~される客体」という立場から脱することができるようにも見える。ところが、ここには、エンパワメントの概念がいつしかパラドックスを生み出してしまったのと同じ構造を見て取ることができる。

 そもそも「クライエントこそ専門家」という表現は、1970年代にアメリカで始まった全身性重度身体障害者による「自立生活運動」において、当事者の方たちが「私たちこそが専門家である」と宣言したことをもじったものである。そして、たしかにクライエント本人が「私たちこそが専門家である」と口にするなら何の問題もない。

 しかし、クライエント本人ではなく、支援者が「クライエントこそ専門家である」などと述べるならば、それは、尾崎が患者Aさんをまさに「退院できる人」として、善意によって、しかも正確に、しかし暴力的に決めつけてしまったのと同じ事態に陥る。

 というのも、結局ここでは、支援者がクライエントを「専門家にしてあげている」だけなのである。本来であれば、クライエント一人一人が自分で「私は何者であるか」を決めるべきである。にもかかわらず、ここでは、支援者が勝手に決めてしまっている。

 この文言をめぐっては、クライエントが専門家であるかどうかといったことが問われているのではなく、クライエントが何者であるかということを、クライエント不在のまま、支援者が先んじて語ってしまっているのではないか、暴力的に押しつけているだけではないのか、といったことが問題になっている。専門家として主体的に判断してふるまってほしいという善意の願いが、クライエントを専門家に位置付け「られる」客体へと追い込むというパラドックスを発生させている。

 尾崎によれば、Aさんを「退院できる人」と捉えることは、同時に、彼自身が「『退院を可能にする救済者』という幻想」(尾崎、2002:19)に酔いしれることでもあったと自戒している。同じく、「クライエントこそ専門家である」と口にするとき、その支援者は「クライエントを専門家にしてあげている善意の人」になってしまう。それは、支援者の勝手なとらえ方にすぎない。

 そのため、物事がなかなか決まらずに右往左往しているクライエントを目の当たりにすれば、「クライエントこそ専門家」の看板は、時間に余裕のない支援者の都合で簡単に下ろされ、支援者がさっさと決めてしまうことにもなりかねない。

(2)自己決定のパラドックス

 支援の過程には、他にもパラドキシカルな混乱したメッセージといったものを見て取ることができる。たとえば、クライエントの自己決定を尊重しようとするあまりに、「自分で決めるように」とのメッセージを送ってしまうことがある。この場合、自己決定とは、本来自主的になされるべきものであるにもかかわらず、表現を強めると「命令して」しまっている。

 そのため、クライエントが自主的であろうとすることは、命令に従うことだが、命令に従うことは自主的なことではなく、また、自主的でないようにしようとすることは、命令に背くことであって、自主的なことになってしまう。

要するに、自主的でないようにすると自主的になり、自主的にしようとすると自主的でないことになって、いずれにせよ、一旦自己決定を促すメッセージが支援者から発せられると、それは論理的な矛盾をもたらし、クライエントは、身動きがとれなくなるというパラドックスに陥ってしまうのである。

 また、たとえば、ある程度強圧的な雰囲気の中で、「あなたの好きなようにしなさい」というメッセージが発せられることもある。だが、ここでの「好きなように」は、メッセージを発した人の「許せる範囲内で」というニュアンスがこもっているため、このメッセージは、「あなたは好きなようにしなければならない、ただし、私が許す範囲内で」ということになり、メッセージを受け取った側は、発した側の顔色をうかがい、許容範囲かどうかを読み取ってからでないと何も決められないことになる。

 このように、「支援する」という他動詞としての展開過程において、クライエントに主体(パワーを獲得する者、専門家)として自発的であって(自己決定して)ほしいという支援者の意図にもかからず、実際には、クライエントが支援対象としての客体であることから抜け出すことができず、パラドックスとも呼ばれる混乱した事態が発生する。

 もちろん、「はじめに」でも述べたように、個別具体的な援助場面で、特に対話が順調に進展している場合には、支援者とクライエントとの間でも、主客の転換が刻々と絶え間なく生じており、パラドックスが意識されるなどということはない。パラドックスとは、あくまでも立場として主客を固定させた非対称的な関係に基づく論理的な帰結にすぎない。

 先にも見たように、非対称性の始源は、クライエントが「逃げられない者」であることに由来する。そして、たとえ、支援者は、「逃げられる者」から「逃げない者」へと覚悟を決めたとしても、クライエントが「逃げられない者」であるという事実に対しては、誰にもどうすることもできない。

 やはり、支援関係は、非対称性を免れることができないのであろうか。

6.非対称性が消えるとき

(1)「クライエントが変わる」

日本でいち早く支援における関係性に注目していた坪上宏は、1970年の時点において、ケースワーク論を支えるのはワーカー・クライエント関係だと主張し、その上で、ケースワークを支える二つの援助観について、次のように整理している。

「その一つは、『クライエントを変える』あるいは治すという見方であり、この見方は、クライエントを外界に適応させるという援助観につながっていく。これに対していま一つの見方は、『クライエントが変わる』という見方であり、それにはまず、ワーカー自身がワーカー・クライエント関係を通して変わりうる柔軟性を身につけていることを前提とし、こうしたワーカー自身の動きとの相互作用の現われとしてクライエントが変わり、その結果が回復につながるという援助観である」(坪上、1998:217)

坪上は、このように述べた上で、後者の援助観が明確化されないままできているため、結果的に「クライエントを変える、あるいはクライエントに欠けているものを補うといった援助観に収斂しがちであったように思われる」(坪上、1998:218)と指摘している。すなわち、クライエントを客体として「変える」ことを目指す援助観が主流だというわけである。

それに対して、坪上は、クライエントだけでなく、支援者の側の変化にも焦点を当て、まず支援者が変化し、そうした「動きとの相互作用」によって、クライエントが変わっていく、すなわち「クライエントが変わる」という援助観を提示した。

また、「変わる」ということについては、「自分自身のなかに可能性として内在していたものが、なんらかのきっかけによって触発され、顕在化するという意味」(坪上、1998:218、傍点引用者)と規定しているのだが、こうした坪上の指摘に対して注目すべきなのは、「変わる」が他動詞ではなく自動詞だということである。

すなわち、そこには変わる主体だけが存在し、何らの客体も現れてはいない。ということは、こうした支援の過程においては、主客関係という非対称性も消え去ることになる。支援者は、クライエントが変わるための「なんらかのきっかけ」にすぎないからであり、さらにいえば、支援者とは、クライエントの変化を見届ける立会人にすぎないということになる。

(2) 「二者心理学」

 坪上と同様の指摘は、やや遅れて北米の精神分析でも行われはじめた。たとえば、『転移分析』で有名な精神分析医のギルは、クライエントだけを変えようとする従来の「一者心理学(one-person psychology)」から、支援者が変わればクライエントも変わり、クライエントが変われば支援者も変わるとして、両者を一つのユニットと捉える「二者心理学(two-person psychology)」への転換を主張している(ギル、2008:54)。

 また、坪上は、早くも1984年の論文「援助関係論」において、二者心理学と同様の関係性にふれて「循環的関係」(坪上、1998:284)と呼んでいるのだが、いずれにしても、クライエントだけを変えようとするのではなく、支援者が変わることを「きっかけ」として、クライエントが変わるといった共変的なプロセスにおいては、たしかに、クライエントが「逃げられない者」であるといった始源的な非対称性はそのままであるとしても、そこから派生する主客関係という非対称性はもはや見当たらない。

 「クライエントこそ専門家」と言い放ったアンダーソンとグーリシャンであったが、アンダーソンによれば、グーリシャンは、次のような言葉を何度も口にしていたとのことである。「セラピストが変えることができる人がいるとすれば、それは自分自身なのだ」(アンダーソン、2001:162)。おそらく、彼らもまた、クライエントを変えようとしては壁にぶち当たり、何度も無力感を覚え、逃げたい、だが、逃げるわけにはいかないといった葛藤的状況に繰り返し苦しめられた果てに、他人を変えようとすることは、いくらそれが純粋な善意からであっても、人が人に対して、そもそもとるべき姿勢ではないと考えるようになっていったのではないだろうか。

 

 

7 支援者にできること

 繰り返し確認しておくと、支援者が変わることを「きっかけ」に「クライエントが変わる」という支援プロセスにおいて、「する-される」といった主客関係を見出すことはできない。そこには、「きっかけ」である支援者と、変わる主体であるクライエントとが存在するだけであって、「~される」客体は不在だからである。

 だが、坪上によれば、支援者が「きっかけ」になるには、支援者自身が変わらなければならないのであった。すなわち、まず支援者が変わり、相互作用を通じてクライエントが変わっていくとされていた。あるいは、ギルの二者心理学でも支援者が変わればクライエントも変わると述べられており、さらには、グーリシャンもセラピストが変えられるのは自分自身であると断言していた。いずれにおいても、支援者の変わることがクライエントに変化をもたらす前提とされていたのである。

 では、どうすれば支援者は変わることができるのであろうか。この問いに対して、少なくとも本稿で取り上げた論者は、誰も「こうすればよい」などいう答えを示してはいない。おそらく、商業ベースの自己啓発などを別とすれば、ソーシャルワークやセラピーの領域において、支援者の態度や留意点が論じられることはあっても、支援者自身が変わるための方法や指針が示されることはない。

 たとえば窪田は、女性患者とのやり取りの後、教員となったのだが、大学における「講義の最中になぜか突如、『ああ、私はあの方の人生とそのつらさを少しも理解していなかった。何というソーシャルワーカーだったか!』という思いにとらえられ、世界が変わりました」(窪田、2013:159、傍点引用者)と自身の変化について述べている。

 さらにまた尾崎は、「仕事熱心な援助者は迷惑」との言葉を投げつけられた経験に対して、「あれから三十年が過ぎた。筆者は今、彼らのことばや行動の意味をこう思う」(尾崎、2002:16、傍点引用者)と前置きをしてから、本稿でも見てきた「回顧」を書き連ねている。

 すなわち、支援する立場にあった者が手痛い「つまずき」の意味することに気づき、自分自身が変わるような経験をするのは、窪田のように「突如」であることもあれば、尾崎のように「三十年」という歳月を要することでもあって、いずれにしても、「つまずき」の発生が予測できないのと同じく、本人たちの想定をはるかに超えた事態なのだといえる。

 では、支援者には、何ができるのだろうか。もう一度坪上の言葉に返ると、そこには「ワーカー自身がワーカー・クライエント関係を通して変わりうる柔軟性を身につけていることを前提とし」(坪上、1998:217再掲、傍点引用者)と述べられていた。

 実際、支援者の変わることが、いつも求められるなどというのは現実的ではない。だが、たとえ常に変わるわけではないとしても、支援者が「変わりうる柔軟性」を身につけようと日々心がけることはできる。また、それに伴って、クライエントの変わりゆく場面がありうると夢見ることも許される。

 というのも、たとえ夢にすぎないとしても、その方向性を見すえていけるのであれば、思いもかけない「つまずき」が発生することは、限りなく抑えられていくからである。

 

参考文献

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