以下の文章は、精神保健福祉分野における啓発活動を実施していく上での基本的な考え方や原則を明らかにするとともに、その実施方法や配慮すべき点を示すことによって、精神障害に対する否定的なイメージが少しでも改善されることを目指して書かれたものです。

 初出は、『地域における精神保健福祉啓発活動のガイドライン』(精神障害者社会復帰促進センター、2002)の第1章「啓発活動の意義」(一部改変)です。

1.啓発活動とは

  1)啓発活動の内容

 啓発活動とは、辞書的にいうと、これまで知らなかったことに対して知識をもってもらうこと、すなわち、知ってもらうことを目指す活動のことです。そのため、何らかの情報を広く行き渡らせる広報活動をその基盤としています。

 しかし、たとえ人が何かについて知っている、あるいは、聞いたことがあるとしても、その理解の仕方が偏っていたり、非常に狭い捉え方になっている場合もありますし、さらには、もっと詳しく知ってもらったり理解してもらうことが望ましい場合もあります。そのため、啓発活動は、広報活動よりもさらに広い内容を含み、ただ情報を広く伝えるだけにとどまらず、その情報についての捉え方や理解の仕方を場合によっては修正したり、あるいは、もっと深めてもらうといったことをも目指しています。

  2)三つの活動

 したがって、強いてわけると、啓発活動には三つの活動が含まれていることになります。

   1.教育的な広報活動

 一つは、あることについて、まったくあるいはほとんど知らない場合に、一定の基本的な知識や情報をわかりやすく提供すること。すなわち教育的な広報活動です。

   2.自己学習のサポート

 また、二つ目は、あることについて、一定の知識をもち、理解の仕方もとりわけ偏っているわけではないけれど、さらにその知識を拡げ、理解を深めてもらうことです。この活動は、基本的に本人の自主性に基づいて継続的に行われるもので、自己学習をサポートする活動ということになります。

   3.偏見の除去・軽減

 そして、三つ目は、あることについて、本人は知っていると思いこんでいるのだけれど、それが偏っていたり、間違っている場合に、それらを修正していくことです。

 あとでふれますが、おそらく、啓発活動の重要性と困難さは、この三つ目の活動にあります。

  3)三つの活動の留意点

 啓発活動に含まれるこうした三つの活動について、その留意点をあらかじめ整理しておきましょう。

   1.教育的広報活動の場合

 まず、一つ目の広報活動については、情報や知識をできるだけわかりやすく伝える工夫が最も重要ですが、そのためには、対象者をどのように限定していくのかといったことを事前に検討しておく必要があります。しかし、一般的にいって、知らないことについての情報や知識は、それがわかりやすいものであれば、それほどの抵抗もなくスッと伝えることができます。したがって、間違った情報や偏った知識を持つ前に広報活動を展開した方が効果的であるということになります。今後は、中学や高校での教育場面における啓発活動ついても検討が必要となるでしょう。

   2.自己学習サポート活動の場合

 また、二つ目の自己学習サポート活動については、関心を持ち続けてくれる人々が対象となりますから、その範囲はいくらか限定されますし、その人のもつ関心の所在によって内容を柔軟に変えていく必要があります。そのため、この活動を一般化して論じることは容易ではありませんが、ただ言えることは、関心を持ってくれる人々がいつでも参加できるような開かれた場を可能な限り用意しておくことが大切だということです。あとは、一人一人の自主性を尊重し、その人の関心に応じて個別的に対応していく柔軟性も必要とされることになるでしょう。

   3.偏見の修正活動の場合

 さらに、三つ目の思いこみを修正する活動ですが、たとえそれが間違っていても、偏っていても、一旦本人が知っているものと思いこんだ場合に、それを修正することはなかなか容易ではありません。本人が知っていると思いこんでおり、しかも、それが偏っている場合に、その偏りを修正することはゼロから知識や情報を伝達するよりもはるかにむずかしいものです。そして、こうした偏った思い込みやものの見方、それを偏見と呼びます。したがって、啓発活動の三つ目の活動は、偏見を除去あるいは軽減させることを目指した活動であるということになります。

  4)三つの活動の関連

 このように、広い意味での啓発活動には、情報や知識を伝えていく広報活動、自己学習をサポートしていく活動、偏見の除去や軽減を目指す活動が含まれています。もちろん、実際には、ある活動がこれら三つのどれに分類されるのかを厳密に確定することは困難で、それぞれが少しずつあるいは大きく重なり合っているものです。たとえば、知識の提供は偏見の軽減につながるでしょうし、偏見が除去されることによって、自己学習の意欲が増大することにもなるからです。三つの活動はそれぞれ相互に密接なつながりをもっているのだといえます。

  5)偏見の除去・軽減活動の重要性

 とはいえ、三つ目にあげた偏見の除去・軽減こそが啓発活動の根本であると位置づけてかまいません。というのも、そもそも啓発活動とは、多く人々が偏見をいだくような事柄に対してこそ行われるものだからです。そういう意味では、広報活動や自己学習サポート活動も偏見の形成をあらかじめ防いだり、継続的に修正していく機会を作り出す活動と位置づけ直すこともできます。

 いずれにせよ、啓発活動が目標として見定めているのは、人々がいだく偏見です。偏見の除去が啓発活動の最終目標となります。では、その偏見とは一体どのようなものなのでしょうか。

2.偏見とは

  1)日々の暮らしと偏見

 偏見とは、これまた辞書的にいえば、偏った見方ということになりますが、これだけでは何を意味しているのか不明瞭です。というのも、反対に、では偏っていない見方とはどのようなものかと考え始めると、なかなかそれに答えることは容易ではないからです。たとえば、偏った見方に対して、中立的な見方、公平な見方といったものを持ち出したとしても、ではどういうときに中立や公平と言えるのかと問い詰めていくと、その根拠を明示することは必ずしも簡単でないことがわかります。もちろん、科学など何らかの基準に基づいて実証されている捉え方も少なくはないのですが、日々の生活はそうした厳密な手続きとは別のところで営まれている場合が多いものです。

 そのため、人の現実に対する見方は、すべて偏っているとさえいうこともできますし、問題なのは、偏っているか偏っていないかではなく、どちらの方に偏っているのか、その偏り方に何らかの正当な根拠があるのかどうかだということもできるほどです。

  2)偏見と差別

 どちらの方に偏っているのかが問題になるのは、たとえば、同一人物に対して、ある人は「あの人はとてもいい人だ」といい、別の人は「あの人はとんでもなくひどい人だ」というような場合です。いずれも偏った見方だという点では同じですが、偏見には、このように肯定的なイメージが付随する場合と否定的なイメージをもたれる場合とがあります。

 そして、偏見によって否定的なイメージを持たれた場合、そのイメージに基づいて、心理的なマイナス感情(たとえば嫌悪感)が生じたり、実際的な態度(たとえば忌避)がとられたり、あるいは具体的な行動(たとえば排除)が発生する場合などは、差別とも呼ばれます。すなわち、偏見は差別を引き起こす基盤のことなのです。

  3)反差別活動

 したがって、偏見を除去・軽減することを目的とする啓発活動は、反差別活動であるともいえます。差別をなくすには、ただ差別をなくそうと声高に叫ぶのではなく、その元となっている偏見を取り除いていく方が効果的だと考えられているからです。

 ただし、啓発活動の目的は、否定的なイメージを肯定的なイメージに反転させてしまうことだというわけではありません。なぜなら、もちろん、一つには、否定的なイメージを肯定的なイメージへと一気に転換させることが実際上きわめて困難だからといった理由もあります。しかし、より根本的な理由としては、たとえ、それが否定的であれ肯定的であれ、偏った見方であれば、それは偏見に過ぎないからです。

  4)偏見除去活動の目的

 問題なのは、ただ単に肯定的か否定的かということではなく、偏っていることにあります。先にひいた例を持ち出すと、「とてもいい人だ」も「とんでもなくひどい人だ」も、ある人に対する捉え方としては、偏っている、すなわち、あまりにも一面的で狭すぎるということ、および、固執されて硬直化しているということこそが問題なのです。

 つまり、偏った見方とは、狭量で硬直化した見方や捉え方のことなのです。そのため、偏った見方に対置されていた偏らない見方とは、幅広く多面的に見ることであり、また、現実や他の人々の意見に応じて捉え方を柔軟に変化させていくことだともいえます。偏見を除去・軽減させようとする啓発活動の目的は、言い換えると、狭く硬直化した捉え方を広く柔軟な捉え方に変えていくことなのです。

3.偏見の成り立ち

 1)硬直化した見方の理由

 ところで、人はなぜ狭い硬直化した見方をしてしまうのでしょうか?

 その理由は、大きくわけると二つあると考えられています。一つは、ものの見方を形成する上で参照される情報や知識がもともと少なかったり偏っているために、それに基づいて形成される見方も狭くなってしまうということです。こうした問題に対して、啓発活動は、広報によって、より幅広い情報や知識を伝えていくことで対処しようとします。

 しかし、この理由だけでは、なぜ硬直化した見方になってしまうのかということの説明がつきません。さらには、いくら広報活動を充実させて幅広い豊富な情報や知識を伝えても、「全然入らない」、すなわち、そうした知識がその人なりの理解として活用されない場合が少なくないという現実も説明できません。そこで、もう一つ、より根本的な理由があるのではないかと考えられています。端的に言って、人が狭く硬い見方をしてしまうのは、その方が楽だからだというものです。

  2)カテゴリー化による情報圧縮

 もともと人間のもっている記憶量や情報処理能力は無限ではありません。しかし、私たちが生きている現実は、無限の情報を含んでいます。そのため、私たちは、生きていく上で必要な情報だけを選択的に処理することで限界ある能力でも対応可能となるようさまざまな工夫をしています。そうした工夫のうち、最も有力なのが言葉を介して、似ているものを一まとまりにしてしまうというものです。カテゴリー化と呼ばれていますが、同一の特徴を共有するものを一つのカテゴリー(一まとまり)に入れてしまうことです。すべての言葉はこのカテゴリー化の作用を担っています。たとえば、「リンゴ」という言葉は、赤くて光沢のある皮に包まれた球に近い形状の果物を指し、それにあてはまるモノはすべてリンゴというカテゴリーに入れられます。

  3)個別性の隠蔽

 もちろん、リンゴのみならず、その説明に用いた「赤い」「皮」「球」「果物」などもすべて何らかのカテゴリーを示していますから、そういう意味で、人間は、言葉を習得するにつれて、カテゴリー化の過程を経ることなしには、現実を捉えることができないともいえます。人間とは、言葉を介して現実をカテゴリー化して捉える動物なのです。

 もともと、個物としての一つ一つのリンゴには、色や形、大きさや味などそのリンゴ独自の無数の特徴(「属性」と呼びます)があります。そうした属性のうち、いくつか(たとえば、さきほどの「赤い」「皮」「球」「果物」など)が取り上げられて、それらが共通している場合に、リンゴというカテゴリーに入れられます。そのため、ここには、無数の属性によって成り立っている個別性を単純化して隠蔽する過程が見られることになります。

 こうして、本来無数の属性を持つはずの個別性がカテゴリーに覆い隠されてしまうと、今度は、あるカテゴリーに属するものに対して、画一的にある属性を貼り付けることができます(カテゴリー属性と呼びます)。たとえば、「リンゴとは酸っぱいものだ」などのようにです。そうすると、リンゴというカテゴリーに入る無数の物体は、ことごとくただ酸っぱいものということになってしまいます。

  4)怠惰な情報処理方法

 そして、重要なポイントは、こうした一つの狭い捉え方に固執する方が、すなわち、硬直化した狭量な捉え方をする方が人間にとっては楽だということなのです。現実は無限です。酸っぱくてとても食べられないリンゴもあれば、全然酸っぱくないリンゴもありますし、程良い酸味がおいしいと感じられるリンゴもあるでしょう。しかし、それを確かめるためには、理屈から言って、無数にあるリンゴすべてを味わってみて、そこから得られる情報を処理し、たえず自分の捉え方を変化させなければなりません。もちろんこれはあまりにも極端な言い方ですが、たとえ、リンゴの範囲をかなり限定したとしても、それでも一々情報を収集し処理して、捉え方を変化させるためにかかる手間はやはり小さくはありません。

 それに対して、最も手間のかからないのは、一度だけ、あるいは、一口だけ食べて、リンゴというものはこういうものだと決めつけてしまう、すなわち、カテゴリー属性を限定的に固定化させて、以後は、そのときに得られた決めつけだけに基づいて無数のリンゴを判断することです。あるいは、もっと手間のかからないのは、他人が判断してくれたものを鵜呑みにして自分では情報収集も処理もしないことです。

  5)偏見による損得

 つまり、偏見とは、ある意味、最も手間のかからない「ものの見方」なのです。人間が偏見を持つのは、その方が手間がかからないから、楽だからなのです。

 もちろん、楽をする分、ちゃんと損もしています。偏見によって狭い見方をしてしまえば、その分現実の豊かさを味わうことはできません。一つの捉え方にこだわってしまえば、その捉え方からはずれる現実をうまく説明できなくなることもあります。そのため、人は、日々直面する現実に対して、自分の捉え方を微妙に場合によっては大きく変更したり調整しながら生きています。たとえ、すべての捉え方が一定の偏りをもつものであったとしても、新たな情報や知識、経験などによって、その捉え方を柔軟に拡げていこうとしているのです。

 ところが、現実に対する捉え方を幅広い柔軟なものに変えていくほど、現実に即した味わいは得られますが、しかし、ある程度の手間をかけなければなりません。そのため、生活していく上での必要性に応じて、ある分野については柔軟な見方ができるけれども別の領域については硬直化した見方をしているというのが、程度の差はあれ、人々の採用している「ものの見方・捉え方」であるといえます。リンゴを食べることが生活上さほど必要性が高くなければ、リンゴに対する見方を柔軟なものに変える手間を惜しんだとしても不都合はないのです。

  6)啓発活動の可能性

 いずれにせよ、偏見とは、狭く硬直化したしたものの見方・捉え方であり、カテゴリーを用いて現実の無限に多彩で豊かな個別性(一つ一つのリンゴの味わいなど)を覆い隠し、画一的に単純化されたステレオタイプ的な理解をすることなのです。それは、言語によって世界を分節している人間が、自らの能力的な限界に対処する上で不可避的に採用せざるをえない戦略であるともいえますが、しかし、それは、決して揺るがしがたく固定したものというわけでもありません。たしかに手間はかかりますが、逆に、手間さえかければ、幅広く柔軟なものに変えていくこともまた不可能ではないのです。そして、そこにこそ、啓発活動の可能性があります。

 やや抽象的な話になってしまいましたが、では、こうした一般的な前提を踏まえた上で、次に、精神障害を取り巻く偏見の特異性を素描してみましょう。

4.精神障害を取り巻く偏見

  1)精神障害のカテゴリー化

 上ではリンゴを例にして偏見の説明をしましたが、今度は精神障害者という言葉(カテゴリー)を取り上げてもう一度説明します。これはリンゴの場合もそうなのですが、精神障害者に対する偏見もまた、大きく分けると二つの過程から成り立っています。一つは、精神障害者のカテゴリー属性を狭いものに単純化する過程です。たとえば、「精神障害者とは、危険な人である」といったように決めつけてしまうことです。そして、もう一つは、ある人を精神障害者というカテゴリーに入れてしまう過程です。偏見自体は、前者にあげたカテゴリー属性の単純化の過程だけでも成り立ちますが、それが実際誰かに向けられるときには、後者の具体的な個人をカテゴリー化してしまう過程も必要になります。それによって、「誰々は精神障害者である、だから危険な人である」といった偏見が作られていきます。

  2)精神障害「者」のカテゴリー化

 ところで、精神障害者というカテゴリーにまつわる偏見の場合、これら二つの過程それぞれに、リンゴなどとは大きく異なった複雑な事情が背景にあります。

 まず、カテゴリー属性の単純化の過程ですが、通常、精神障害者にまつわる偏見は、「遺伝(あるいは育て方)、危険、不治」といわれ、それぞれが原因(過去)、状態像(現在)、予後(将来予測)に対応しています。そして、リンゴに対する個人的な偏見とは異なり、これらの偏見は、実に多くの人々の生活や人生に直接的な影響を及ぼすものです。「原因」は家族を苦しめ、「状態像」は周囲の人々の差別行動を促し、「予後」は本人や家族を絶望させるものなのです。精神保健福祉の分野で啓発活動が必要とされる根拠は何をおいてもここにあります。

  3)精神障害者への偏見の特徴

 さらに、これらいずれもが薬物などによる有効な治療法がほとんどなかった半世紀以上も前の時代から形成されたものであることがわかります。すなわち一朝一夕につくられたのではなく、何世代もかけた重い歴史を背負ってきた社会的な偏見なのです。そのため、啓発活動を始める際には、これらの偏見が背負ってきた重みと根深さに圧倒されることがあります。

 また、これら三つの偏見の中でも、とりわけ「危険」については、今現在も繰り返し生み出し続けられている偏った情報であるという事情があります。最も目立つのは、マスコミによる事件報道ですが、精神障害者に関して社会的に流通している情報量は圧倒的に少なく、ときおり目につくものは事件報道のみという有様なので、まさに偏った情報のみが流されているわけです。

 そして、このことは偏見を作り上げているもう一つの過程、すなわち精神障害者の実像がよく見えないままにカテゴリー化しているという状況と分かちがたく結びついて、精神障害者に対する偏見を独特なものにしています。

5.精神障害への偏見の特徴

  1)見えない精神障害

 精神障害者をカテゴリー化する際の困難さとは、端的にいって、精神障害が見えないということです。つまり、私たちは、ある人を精神障害者としてカテゴリー化する手がかりをほとんどもっていないのです。これは、他の障害とも異なる特異な事情です。

 たとえば、日本において、精神障害者と呼ばれる人は200万人以上ですという情報が与えられたとき、驚く人はいますが、なるほどと納得する人はまずいません。200万人以上といえば、単純にいっても60人に一人ということですが、それほどの頻度で精神障害をかかえる方たちと出会ったり接しているという実感をもつ人などいないからです。たとえ、精神障害者の方たちとすれ違っていたり、すぐそばで暮らしていたりしても、その方が精神障害をかかえていることなどほとんど見えません。

  2)精神科の利用と偏見

 だとすると、個人的に接触のあるプライベートな空間は別として、社会的なあるいは公共的な場で、ある人を精神障害者と判断する根拠は、その人が精神科に入院・通院している(していた)ということぐらいしかないことになります。もちろん、この根拠自体が間違っているというわけではありません。200万人以上という数字も、あるいは、マスコミの事件報道に付加される情報も、この根拠を用いているわけですから。ただ注意すべきは、その際に、「精神病院に入れてしまうぞ」といった脅しにさえ使われるような精神病院に対する否定的なイメージがぬぐいがたくつきまとってしまうということです。

  3)事件報道と偏見

 しかし、精神医療を利用しているかどうかなどということは、ある人を見たところで基本的にはわかるはずのないことです。したがって、私たちは一般に、誰が、あるいは、どのような人が精神障害者というカテゴリーに入れられる人なのか原則としてはわかっていません。そのため、明らかに目立つ人、たとえば、事件報道やあるいは近所でのもめ事などを通じてしか精神障害者というカテゴリーの属性をイメージしていくことができないのです。

  4)偏った情報による硬直化

 逆に、もし、精神障害をかかえる人たちがそれとしてわかるのであれば、そこにはさまざまな人たちがいて、自分たちと何ら変わりない人たちがほとんどを占めており、もちろん中には事件につながってしまう人もいるかもしれないけれど、それがいかに稀なことであるかということも実感できます。しかし、そうした手がかりをまったくと言っていいほど持っていないという事情があるからこそ、精神障害やそれをかかえる人たちに対する偏見は、歴史的な重みを背負いながら、偏った情報だけに基づいて狭められ、変化させるための新たな情報も得られないままに硬直化したものとなっているのです。

  5)精神障害についての啓発活動

 繰り返しますが、偏見とは、無限に豊かな個別性を何らかのカテゴリーによって画一化してしまう暴力的な捉え方です。多彩な個性をもっている個人に対して、ただ精神障害をかかえているという属性だけを優先させ、他の属性を圧殺してしまうことがどれほど本人を傷つけるものであるかは想像に難くありません。したがって、啓発活動とは、精神障害者というカテゴリーを相対化し、覆い隠された豊かな個別性を少しずつ浮き彫りにしていく活動であるともいえるのです。

 では、こうした世代をも越えた重みを持つ偏見に対して、どのように揺さぶりをかければいいのでしょうか。そこで、最後に、精神保健福祉啓発活動の方向性を見ておくことにしましょう。

6.精神保健福祉啓発活動とは

  1)精神障害に関する偏見の要因

 精神保健福祉啓発活動とは、心の病気や精神障害、あるいは、精神障害者と呼ばれている方たちに対する偏見を除去・軽減するための啓発活動です。その詳細な方法論については、次章で具体的に述べることとして、ここでは、上に示した精神障害にまつわる偏見の特異性をふまえながら、それを揺さぶるための方向性について、最小限の確認をしておきましょう。

 先に述べたように、精神障害にまつわる偏見を作り出している最大の要因は、つまるところ、精神障害が見えないことです。見えないからこそ、世代を越えた遺物のような偏見であるにもかかわらず、いまだに形を変えることなくそのまま再生産されざるをえないという状況がまずあります。そして、通常は見えないにもかかわらず、たまに浮かび上がってくるのが事件報道などを通じたショッキングな情報に偏っているため、実状にそぐわない偏見であっても強化されこそすれ変容を被ることはないというわけです。

  2)基本的な方向性

 とすれば、精神保健福祉啓発活動の基本的な方向は、いかにして精神障害を見えるものにしていくかということになりますが、精神障害が見えないというのは、二つの意味を持っています。一つは、精神障害というカテゴリーの属性が見えない。すなわち、精神障害とはどういうことを指しているのかがよくわからないということです。そして、もう一つは、精神障害をかかえている人々の個別具体的な姿が見えない。精神障害をかかえている人々とは一体どういう人なのかがわからないということです。こうした見えない状況の中で事件だけがクローズアップされた結果、こういう事件を起こすような人を精神障害者と呼ぶんだ、だから、精神障害者と呼ばれる人たちもまたこういう人と一緒なんだといった不当な一般化が行われているわけです。

  3)精神保健福祉啓発活動の基本的な戦略

 そのため、このような社会状況を揺さぶるべく啓発活動のとるべき戦略は、まず、精神障害とは何なのかということをわかりやすく提示することであり、その上で、精神障害をかかえている人々と直に触れあってもらう場を作っていくことになります。

 本章の最初にふれましたが、啓発活動は、大きく三つの活動から成り立っています。教育的な広報活動、自己学習のサポート活動、偏見の除去・軽減を目指す活動です。その際にも述べたように、これら三つの活動は相互に密接なつながりをもっていますが、強いて対応させるとすれば、精神障害のカテゴリー属性を明示することは広報活動や偏見の軽減を目指す活動で主として取り扱われ、直接触れあってもらうことが自己学習のサポートや同じく偏見の除去につながるものといえます。

7.精神保健福祉啓発活動のポイント

 1)否定的イメージの変更に向けて

 精神障害のカテゴリー属性を明示することとは、見えにくい精神障害というものを一定の枠組みにはめ込んで、わかりやすい形で概念的に提示し、従来の単純化された否定的な属性を変更あるいは書きかえていくことです。そして、その際に留意すべき課題は二つあります。

   1.身近な問題として位置づけること

 一つは、精神障害、あるいは、より広く心の健康といったことについて、できれば自分の問題として、少なくとも身近な問題として捉え直してもらうということです。というのも、自分のかかえる問題の延長線上に位置づけてもらえれば、否定的な色合いはずいぶん薄まりますし、また、先ほどもふれたように、自分とは無関係だ、すなわち、自分の生活上あらためて考え直す必要性が高くないと判断されれば、わざわざ手間をかけてまでこれまでの捉え方をあえて変えようなどとは誰も思わないからです。したがって、精神障害を見えるものにする際に検討すべき最初の課題は、精神障害の問題をいかに身近な問題として位置づけなおしていくかということになります。

    2.精神障害特有の問題として位置づけること

 二つ目は、上の課題と正反対のようにも聞こえますが、誰もがかかえる問題の延長線上にある同質の問題ではあるけれど、にもかかわらず、精神障害に特有の、あるいは、精神障害ゆえに対応が必要とされる問題があるということを提示することです。心の健康を保っていくということは、誰に対してもあてはまる問題であり、精神障害をかかえる方々のおかれている状況もまた、たしかにその延長線上に位置してはいるのですが、それだけであれば、逆に、地域においてさまざまな社会的サービスが必要とされる理由を示すことはできなくなります。

 

 このように、自分のあるいは身近な問題として位置づけてもらうこと、および、にもかかわらず固有の問題が存在していること、この二つの枠組みで精神障害の問題を提示していくことが精神保健福祉啓発活動の第一ステップになります。

  2)直接触れあってもらうために

 ただし、この第一ステップは、言葉による広報活動であり、そういう意味では、カテゴリー属性の提示や書きかえは目指されているものの、カテゴリーに覆い隠された一人一人の豊かな個性を浮き彫りにするまでには至っていません。そうした課題は、直接触れあってもらうという第二ステップの目指すものです。言葉を通じた概念的な理解ではなく、直接一人一人に接してもらって、カテゴリーの下に埋もれた多彩な生の姿を肌で感じてもらいたいというメッセージを届けていくのが第二のステップなのです。

 端的には、接触できる場としてのイベントやボランティア活動への参加を呼びかけるということになります。そのための具体的な工夫としては、できる限り間口を拡げ、敷居を低くするために、たとえば、誰もができる活動(たとえばじっくり話を聴く)こそが、この問題にとってはとても有意義なものであるというメッセージなどが有効です。

  3)地道な活動の継続

 おそらく、啓発活動が対象とする範囲は、このように、直接一人一人に接してもらえるような場を設定し、そこへの参加を呼びかけることまでなのだろうと思います。あとは、直接触れあった人たちが自らの経験をふまえて、これまでの見方や捉え方を少しずつ変えていくのを期待するしかありません。もちろん、本来であれば、伝えたいことや理解してもらいたいことは、他にも数多くあります。少なくとも、継続的な関わりの中で少しずつ学んでいってほしいとも思いますし、自分の体験から得られた言葉を身近な人々に発信してほしいとも思います。

 しかし、精神保健福祉の分野に限らず、啓発活動とは、奇妙な表現ですが、非常に「禁欲的な活動」なのだと思います。人は誰しも、たとえそれがどれほど正しい知識や理解であるとしても、他人から無理矢理教え込まれたりすることには反発を覚えるだけだからです。そのため、啓発活動それ自体は、厳選した最小限のメッセージだけをじっくり時間をかけて繰り返し伝えながら、これまでの偏見に少しでも揺さぶりをかけていく地道な活動にすぎないともいえます。あくまでも世代を越えた重みある偏見が相手なのだということを片時も忘れることは許されません。決して欲張るわけにはいかないという謙虚な禁欲的態度と、しかし、だからといってあきらめたり投げ出すわけにもいかないという覚悟にも似た粘り強さとが必要です。とりわけ、歴史的といってもよいほどの重い偏見を前にするときには、身を削る謙虚さと、あきれるほどの粘り強さとを持ち続けることがどれほど大切であるかということを、まさに自戒を込めて、思い知らされることがあります。