■はじめに

 誰かとの「関わり方」について書くというのは、考えてみれば奇妙なことです。私たちは、普段、誰かとの「関わり方」ということをそれほど意識しながら生活しているわけではないからです。私たちは、ほとんどの場合、その場その場で臨機応変に関わっているのが実状ではないでしょうか。

 もともと、精神障害の有無にかかわらず、人と人との関わり方の理想は、「自然体」です。技巧に走った関わり方やマニュアル的な関わり方をされたら、何だかわざとらしいと思ったり、うそくさく感じられて、誰だって気分がよくないと思います。したがって、関わり方の大前提は、あくまでも普段と変わらない自然体ということになります。

 にもかかわらず、精神障害を持つ方々に対しては、あえて「関わり方」を書かなければならないのだとすれば、おそらく、精神障害を持つということについての私たちの理解があまり十分ではないために、間違った、あるいは、的はずれの関わり方をしてしまうことが少なくないからだということになります。

 自然体を基本にしながらも、その上で、普通の接し方ではどうもうまくいかないと思うときに、精神障害を持つということはどういうことなのかあらためて考える必要があるということです。

 では、関わり方を考える上で、精神障害を持つということは、どのようなことなのでしょうか。

1.「できない」という障害観

 精神病の症状や精神障害とはどのようなことであるのかといったことは、いろいろなところできれいに整理されていると思いますが、精神疾患とりわけ統合失調症によって生じる障害とは何かという問いに答えることは非常にむずかしいことです。多彩な様相の何を中核とみなすかを決めることさえ困難で、さらには、それらをどういう場面(面接場面、作業場面、集団場面、生活場面などなど)で捉えるかという点でも曖昧さがつきまとっています。

 そうした状況の中で、従来の障害観は、こうした困難さや曖昧さに対して一つの共通する立場を取ることが多かったと思います。それは、どのような場面であれ、障害を「できないこと」と見なすというものです。

 例えば、分裂病によって生じる生活場面での障害について、家族会によって、家族を傷つけまいとする最大限の配慮を加え、かつ、可能な限り平易に整理しようとして書かれたハンドブックにおいてさえ、統合失調症による「生活障害」の特徴として、次のような表現で項目が列挙されています。

  1.生活のリズムを一定に保つのが困難(昼夜逆転、食事、身だしなみ、服薬)

  2.対人関係がぎこちなく、スムーズにいかない(挨拶、人づきあい、思い込み)

  3.作業能率が上げられない(疲れやすい、集中力・持続力の低下、手順が悪い)

  4.全般的に(意欲低下、感情の起伏が少ない、気配り困難、こだわり)

 これらは、確かにこれまで指摘されてきた生活障害の諸点を簡潔に整理したものではありますが、だからこそ、すべてこれまでの多くの障害規定が取り続けていた記述、すなわち、「~ができない」「~がない」といった否定形に置き換えることができる表現になっています。そして、障害を「できないこと」と捉えれば、障害を持つ方々は「できない人」ということになります。

 しかし、私のことを「できない人」と思っているような人と関わることがどれほどつらくせつないことであるかは、我が身におきかえてみればすぐにわかることです。関わりということを基本に考えれば、相手の方を「できない人」として見ることは、失礼であるだけでなく、深く傷つけることにもなりますし、もちろん、関わりを継続させるような見方ではないということになります。

2.「休むのが苦手」という障害観

 関わる際に相手の方を「できない人」としてみることは許されません。とはいえ、先にもいいましたように、精神障害を持つということには、何か配慮すべきことがあるようです。そこで、ある人の考えた精神障害の捉え方は、次のようなものです。

 「精神障害とは、なじみのない人・物・仕事・場所などに合わせていくのに、普通の人よりも時間がかかることです」(窪田暁子)

 精神障害を持つ方々は、決して「できない人」ではありません。精神障害を持つということは、基本的に、こころに疲れをため込んで、ヘトヘトになっているために、身動きがとれないような状態とイメージできます。したがって、疲れた身体にむち打って、頑張ることもできますし、やればできるのですが、時間がかかってしまったり、非常に負担が大きくなってしまいます。

 とりわけ、普段の自分のペースや生活スタイルを守ることがむずかしいような状況になると、疲れが倍増します。たとえば、ペースを乱すほどにやるべきことがいくつも重なってきたり、一つのことにやっとなじんできたところに新しいことを言われたりすると途方に暮れることもあります。つまり、外からの要求に合わせなければいけないと思うとよけいにぎこちなくなって、そのためにひどく疲れてしまうのです。

 精神障害を持つということは、できないことなのではなく、できてしまうからこそ頑張りすぎて疲れをため込んでしまうことなのです。私たちは、疲れたときは適当に休みますし、手を抜いたり、後回しにしたり、いい加減にすませたりできるのですが、精神障害を持つ方々は、逆に、そういう風に適当に手を抜いて休んだりすることが苦手です。

 精神障害とは「休むのが苦手」ということなのです。そのために、やり始めるとつぶれてしまうほどにまで頑張ってしまうために、そのことが身にしみてわかっている人は、こわくてやり始めることができません。できるのだけれど、頑張りすぎてつぶれてしまうのがこわくて、結果的には、周りから見るとできないかのように見えてしまいます。

 そういう事情は、本人にもうまく説明できませんし、もちろん、周囲の人々にもわかりにくいことなので、決してできない人ではないにもかかわらず、できないように見えてしまって、本人も自分はダメな人間だ、役立たずだと思いこんだり、人に分かってもらえないといら立ったりして、よけいにつらい状況に陥ったり、引きこもってしまうこともあります。

 おそらく、自分でもよくわからず、また周囲の人々も理解してあげられないという事情こそが、他の障害とは違って、精神の障害をとりまく最も痛ましいことなのではないかと思います。

3.自然体プラスアルファ

 はじめにいいましたように、関わり方の基本は自然体です。ただし、精神障害を持つ方々との関わりに、もし、必要なことがあるとすれば、精神の障害には「休むのが苦手」というわかりにくさがあるということです。

 では、「休むのが苦手」な人に関わるとき、自然体にプラスすべきアルファとは何でしょうか。それは当たり前のことですが、「休むのが苦手」な人に対しては、普段以上にゆっくり休んでもらえるような配慮をするということになります。

 それは、無理強いをしないという配慮でもありますが、そうした配慮をもう少し具体的に段階を追って整理すると、次の三つになるのではないでしょうか。

 1.本人のペースを受け入れる

 ゆっくり休めるような配慮の第一段階は、本来自然体に含めてもいいのかもしれませんが、無理しないでもいいというメッセージを伝えることです。それは、本人のペースを受け入れて、その生活スタイルを尊重することです。あるべき姿をこちらで勝手に描いて、それと比較するのではなく、ありのままの姿を受け入れることであるともいえます。

 これができているかどうかは、相手の方といるときに自分が焦っているかどうかを自覚してみればわかります。少しでも焦っているように感じられたら、何らかのあるべき姿を押しつけようとしている可能性があります。自分が何も焦らずにゆったりと接していると感じられるときは、相手の方の姿をそのまま受け入れている状態なのだと思います。

 2.回復を信じる

 第二の段階は、本人のペースを受け入れるとともに、でも、本人には回復していく力が備わっていることを信じることです。すなわち、希望を持ち続けていくことなのですが、おそらく、これが最もむずかしいところです。というのも、ただ受け入れるだけだと、だんだん投げやりになってしまう危険性が高く、受け入れたはいいものの、次への展望が開けなくて、関わり方が散漫になってしまうこともありますが、かといって、希望を持ち続けていこうとすると、ついつい希望が期待になり、期待が強くなると、その実現を暗に強制したり誘導したりして、結果的にプレッシャーを与えることにもなるからです。

 回復を信じているかどうかは、相手の方が何かに失敗したときや後退したときなど、うまくいかないときにどれほどの失望を感じるかを自分でセルフチェックしてみればわかります。ちゃんと信じられている人は、少々の失敗や後退などをあまり気にしません。信じていない人ほど失望の度合いも高いのです。大きく構えてもっと先に希望をおいている人こそが、失敗をも笑って受け入れられるのだと思います。

 3.本人に任せる

 第三の段階は、任せることです。あらゆる関わり、あるいは、あらゆる援助は、すべてしょせん補助にしか過ぎません。あくまでも主人公は本人なのです。とはいえ、この任せることは、あくまでも第三段階として位置づけられているのであって、第一段階や第二段階を踏まえてなければ、任せるという名の下で、結局は、投げ出したり見捨てたりするのと変わらないような状況にもなります。受け入れて、信じた上で、任せることは、最初から何もかも任せてしまう放任主義ではないのです。

 このように、段階を踏んだ上で、いろいろな選択や作業を本人に任せることは、別の言い方では「待つこと」ともいわれています。私たちは、「こっちを選んだ方がいい」とか「こうすればいいんだ」とかとついつい口をはさんでしまいがちです。それは、決して受け入れた上で、信じたり任せたりしているわけではないということで、たとえ時間がかかっても、失敗の危険性が高いと思われても、にもかかわらず、本人の意志が固まるのをじっくり待てるかどうかが何よりも大切なのではないかと思います。

 以上、三つのプラスアルファを段階として整理してみました。段階とはいっても、時間をかけて一つずつ登っていくようなものではありません。それぞれが前の段階を前提として成り立っているという程度の意味です。つまり、基本はあくまでも「受け入れる」ことであり、それが十分にできてこそ「信じる」ことや「任せる」ことが「休むのが苦手」な方々を楽にしてくれるのではないかと思います。

4.自分にOKが出せるか

 相手の方のペースを受け入れ、回復し信じて希望を持ち、本人に任せてじっくり待つこと。休むのが苦手な人に関わる際の基本を整理にすれば、こういう感じでしょうか。

 これらをメッセージ直してみれば、「今のままのあなたで、無理しなくていい」「失敗しても、笑ったり見捨てたりしない」「ちゃんと待っているから、ゆっくり悩んでいい」ということにでもなるでしょうか。もちろん、こうしたメッセージを口先で伝えればいいということではありません。あくまでも、自然にこう思っていることがいつしか伝わればいいという程度です。

 ただ、それにしても、こうしたメッセージが自然と伝えられるかどうかは、実は、私たちが、自分自身の今のままの姿を受け入れているかどうか、自分の失敗を笑い飛ばせるかどうか、悩みながらも自分で決めて自分で責任を取ろうとしているかどうか、といったことにかかっているのではないかと思います。

 自分以外の人に、肯定的なメッセージを自然と伝えていくことができるかどうか、すなわち、安心感を贈ることができるかどうかは、結局、自分自身に対して、そういうメッセージを贈ってきたかどうかということによるのです。自分にOKを出したことのないままに、他人にOKなど出せるはずもありません。

 そして、自分にOKが出せるかどうかは、今まで、どれほど他人からOKをもらってきたかによると思います。誰からもOKをもらったことのない人が自分にOKを出せるはずもなく、自分にOKが出せないで、他人にOKが出せるとは思えないからです。

 とはいえ、これは、今から他人にOKをもらうよう頑張りましょうなどということを意味しているわけではないのです。私たちは、「すでに」いっぱいのOKをもらって生きてきました。ただ、そのほとんどを忘れたり、見逃したり、見ないようにしてきただけなのだと思います。

 それらを思い起こし、照れずに見据えて、自分にもらったOKを実感することができれば、おそらく、その人は、まったくの自然体でも精神障害を持つ方々を傷つけるようなことはないと思います。

■おわりに

 今の世の中、自分にOKを出すことは、ほんとにむずかしいことです。そのため、自分でできもしないことを書くのは、とても心苦しいものですが、しかし、少なくとも、私は、そういう自然体の関わりができる何人かの方たちとお会いしたことがあります。とても素敵な方たちでした。上にあげた三つのプラスアルファは、そういう方々を見ていて感じたことを整理したものともいえます。

 繰り返しますが、関わり方の大前提は、あくまでもその人の持ち味を生かした自然体です。よく言われるように、関わり方などというものは、本来、はしごのようなものです。登ってしまえば、それはもはや捨てられるべきものにすぎないのです。

 一人でも多くの方たちが、はしごを捨て去って、力を抜いた自然体でゆったりと関わってもらえるようになればと願うばかりです。